(韓国語原文)
メディア・ウォッチ2018年4月14日
「従北」文在寅の「嘘つきハルモニ」、日本軍慰安婦李容洙(1)
李容洙と挺対協のせいで国際詐欺劇に転落する危険に直面した韓国の日本軍慰安婦問題
シン・ギュヤン記者
李容洙(イ・ヨンス)は朝鮮人出身の日本軍慰安婦たちの中でも、まさに「アイコン」として通じる人物だ。
日本軍慰安婦の生存者は数十人だが、主なメディアからスポットライトを当ててもらっているのは、主に「韓国挺身隊問題対策協議会」(以下、挺対協」)とともに活動している4、5人に限られる。李氏は、その中でもユン・ミヒャン挺対協常任代表のパートナーとして最も活発に対外活動を行ってきた代表格だ。
しかし、李容洙がはたして韓国民が一般に理解している「日本軍慰安婦」に当たるのかについて、事情をよく知るネチズンたちは以前から批判的な疑問を提起してきたのが実情だ。左翼百科事典の「ナムwiki」の利用者たちをはじめ、いくつかのオンライン論客たちの度重なる合理的な批判も、代表的メディアは、過去十数年、李氏の問題に知らんぷりを決め込んできた。
何よりも李氏は、日本軍慰安婦問題の核心である日本軍による強制連行問題について、その証言が何度も変わった前歴がある。しかも李氏が、ほかでもなく「従北」団体の挺対協といっしょに、さまざまな理念活動、政治活動を続けてきたという問題も見過ごせない。
メディアウォッチの取材の結果、李容洙の年齢、結婚、職業など基本的な部分について、正体が疑わしい状況も一つや二つではないということが確認された。
日本軍慰安婦の証言は絶対に疑うべからず?
李容洙の1993年の本人の証言と、1997年の「ハンギョレ」の記事によると、李氏は、1944年10月、日本軍慰安婦として募集され、1945年1月から台湾の新竹空軍基地の隣の慰安所で、終戦まで日本軍慰安婦の生活をした。7~10か月ほど慰安婦生活をしたわけだ。
初期の証言によると、李容洙は1日に5〜6人の日本兵の相手をしたそうだ。初期の証言では、神風特攻隊だったという「長谷川」という日本軍将校が彼女を助けてくれ、二人でロマンチックな愛を育んだという話も出てくる。
しかし、李氏は1990年代後半から、自分が「1942年に14歳で日本軍慰安婦として連行され、台湾で3年間日本軍慰安婦の生活をした」というふうに、証言内容がころころ変わり始めた。また、あとになると、一日に相手をした日本兵の数も、最初に言っていた5〜6人から、少なくとも20人、最大で70人へと急増し始めた。
1993年に李容洙を取材した「ハンギョレ」の記事を見ると、解放後、飲み屋の従業員や家政婦などをしていたが、日本軍慰安婦問題が話題になる前の87年に、60歳で75歳の老人の後妻になったという話も出てくる。婚姻届まで出したそうだ。
しかし、2007年のEBS放送「時代の肖像」の証言では、李容洙は、日本軍慰安婦問題が話題になるまで結婚せずに生きてきたと話している。
信じられないが、このように錯綜した証言は、すべて李容洙一人の口から出てきたものであり、100%書証からも矛盾が確認されている。
(写真)
キャプション▲日本軍慰安婦李容洙と尹美香挺対協常任代表はパートナーとしてさまざまな政治活動、社会活動をいっしょに行ってきた。
(写真)
キャプション▲日本軍慰安婦李容洙の虚偽証言、証言の矛盾の問題があまりにも深刻なため、「木wiki」はその左翼的傾向にもかかわらず、これを批判的に扱っている。そのほかGoogle、ネイバーで「李容洙」、「証言」、「矛盾」で検索語すると数多くの李容洙の虚偽証言、証言の矛盾に関するコンテンツが確認される。
(写真)
キャプション▲日本軍慰安婦李容洙の証言の変化は、常識を越える水準だ。上記の表の証言は、どれも主要メディアのインタビューや米国議会、フランス議会で出てきたものだけを集めたもので、このような重要な証言も到底つじつまが合わない。これらの証言は記事本文で詳しく扱うことにした。
1993年の証言では、就職詐欺で日本軍慰安婦になったと証言
まず、李容洙の1993年の証言から見てみよう。次は、「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集」に収録されている(123〜124ページ)。これは、今はなぜか閉鎖されている女性家族部のウェブサイト「日本の慰安婦被害者E歴史館」にも載っていたもので、インターネットでも簡単に検索できる。
1944年、私が満16歳の秋のことだ。そのとき私の父は米倉で米を運ぶ雑役夫として働いていた。私と同い年の友だちにキム・プンスンという女の子がおり、その母親は水商売をしていた。ある日、私が彼女の家に遊びに行くと、母親が「おまえは、履き物ひとつ正しく履けないなんて、どういうこと? おまえなんか、うちのプンスンといっしょにあっちへ行ったらいい。そこに行けば何でもあるよ。ご飯もたくさん食べられるし、お前の家も楽にしてくれるよ」と言った。そのときの私の服がぼろぼろで返す言葉がなかった。
数日後、プンスンと川でタニシを捕っていると、向こう岸の土手の上に立っている知らないおじいさんと日本の男が見えた。おじいさんが私たちを指さすと、男が私たちのほうに降りてきた。おじいさんは立ち去り、男が私たちに手招きした。私は怖かったが、プンスンは気にせずに川を飛び越えて向こう岸に行った。
ところが、数日経ったある日の明け方、プンスンがうちのポンチャン(土壁につくられた枠のない窓)を叩いて「そっと出ておいで」とささやいた。私は忍び足でプンスンについて外に出た。母に何も言わずに、ただプンスンについて家出をした。家で着ていた黒いチマとボタンのついた長い木綿のチョゴリ姿で、げたをつっかけていた。行ってみると川で見た日本人の男がいた。彼は四十足らずに見えた。国民服を着て戦闘帽をかぶっていた。彼は私に布袋を一つ渡し、中にワンピースと革靴があると言った。袋をちょっと覗くと、ほんとうに赤いワンピースと革靴が見えた。それをもらって、子供心になんてうれしかったかわからない。それで、何も考えずにあっさりとついていくことにした。私を含め、未婚女性5人だった。
そのまま駅に行き、汽車に乗って慶州に行った。私は、生まれて初めて汽車に乗った。慶州に行って、ある旅館に入った。旅館の前の小川で手を洗っていたとき、山すその斜面に紫色の花が一輪咲いていた。生まれて初めて見る花なので何の花かと聞いてみたら、桔梗の花だと言われた。そこで二日ほど過ごしたが、その間にまた女性が二人連れてこられた。それで女性が7人になった。慶州から汽車に乗って、大邱を通った。走る汽車の割れた窓ガラスの向こう側に、自分の家が見えた。その時になって初めて家のことを思い出し、母に会いたくなった。私は、お母さんのところへ行くと言って大泣きした。布袋を押しやって、これいらないから、家に帰してよと言って泣き続けた。泣き疲れてぐっすり眠りこんでしまったので、どのぐらい汽車に乗っていたかわからない。何日か乗っていたようだ。
これがはたして日本軍による強制連行だろうか? この証言だけでは、友だちの「キム・プンスン」の誘いと本人の自発性による家出、そして水商売をしていた「キム・プンスン」の母が「キム・プンスン」と李氏を人身売買の対象にしたと見るほかない。その種の業者による誘引詐欺も疑われる。
特に李氏のこの1993年の証言は、とても具体的である点が注目される。自分の服が「黒いチマとボタンのついた長い木綿のチョゴリ姿」、自分を連れて行った日本人の男が「四十足らずに見えた」、その日本人男性が「国民服」と「戦闘帽」姿だった、自分を誘うために「ワンピース」と「革靴」をくれた、などというくだりだ。
これは李容洙が最も若い頃にした公式証言でもあり、誰が見てもこの証言の信憑性がもっとも高いと思われる。
李容洙はこうして業者たちに誘われ、台湾の日本空軍基地で慰安婦生活を始めることになる。「ハンギョレ」1997年9月6日付記事「慰安婦ハルモニ、泣かないで!―台湾新竹基地前/恥辱の現場を訪ねたハルモニの涙... 慟哭」という記事を見てみよう。
去る8月30日朝5時30分、台湾の台北から1時間ほど離れた新竹空軍基地の前。李容洙ハルモニ(72・大邱市達西区サンイン洞ピドゥルギアパート107棟113号)は、胸を押さえて座り込んだ。 「まさかと思ったが... 、ここが本当に」
「新竹」というおぼろげな記憶を頼りに探しに来た、身の毛もよだつ50年前の慰安婦生活は、空軍基地と基地の横を流れる小川、部隊の周りの防空壕は、戦時20数人の女性がいたという基地のそばの70代の老人の証言によって、生々しくよみがえった。「部隊の中だったと思う。最初は建物だったが、爆撃で崩れたので、板で仮設の建物を建てた」
第2次大戦が大詰めだった45年1月にここへ連れてこられた李ハルモニは、ここがどこかもわからないまま、日本の敗戦まで1日5〜6人の日本兵を相手にしなければならなかった。
総期間で見れば、1944年の秋に「国民服」と「戦闘帽」を身に着けたある日本人の男に会ったあと、日本の敗戦まで10か月間、日本軍慰安婦の生活をしたのだ。この期間もいったん覚えておいてほしい。
1990年代後半から行ったり来たりする李容洙の日本軍慰安婦募集に関する証言
しかし、李氏の上のような証言内容は、折から政権が左派政権に移った1998年以後、はっきりと変わり始めた。まず、「ハンギョレ」1998年5月6日付「慰安婦ハルモニ、政府支援金を拒否、李容洙氏など3人」という記事を見てみよう。
日本軍慰安婦として連れて行かれ、帰ってきた大邱地域のハルモニ5人のうち、李容洙ハルモニ(71・大邱市)など3人が、日本に賠償を要求しないという政府の方針に反発し、政府支援金3150万ウォンの受領を拒否した。慰安婦ハルモニたちが政府支援金の受領を拒否するのは今回が初めて。
李ハルモニらは、4日、政府支援金受領に関し、「今後、日本の民間資金を受けとらない」という覚書を受けとりにきた大邱市の関係者に会って、「日本政府に責任があるのだから、彼らから正式謝罪と賠償を受けなければならない」と言って、覚書作成と支援金受領を拒否した。14歳だった1942年、日本軍慰安婦として引きずられて行った李ハルモニは、去る92年、被害者らとともに10回以上も日本に渡り、日本政府の謝罪と法的賠償を求めてきた。
1993年にはっきり「1944年、16歳のとき」と言っていたものが、1998年には突然「1942年、14歳のとき」へと変わった。こんな変更を記者が勝手に行うことはありえない。
「ハンギョレ」の1999年3月6日付「軍慰安婦ハルモニ、大学院生に」という記事も見てみよう。満14歳と「満年齢」で表記されているが、やはり1942年に日本軍慰安婦として連行された年になっている。
日帝当時、初等学校を中退して夜学で漢文などを学んだ彼女は、かつて1942年に満14歳の花のような年齢で日本軍慰安婦として引っ張られて行き、解放翌年の46年に故国に戻った。
次は、日本共産党の機関紙『赤旗』2002年6月26日付だ。(リンク:元「慰安婦」へ補償を...参院議長らに法案成立要請)
同法案は、元「慰安婦」とされた人たちに謝罪の意を表し、その名誉回復のために必要な措置(金銭の支給を含む)を講ずると定めています。日本共産党、民主党、社民党の野党三党が前国会に提出し、継続審議になっています。
韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として、今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。
日本共産党からは吉川春子、八田ひろ子参院議員が同席しました。
14歳という内容に加え、銃剣で脅迫され「連行」されたという内容まで出てくる。銃剣を突きつけたのが誰なのかは語られていない。
1944年から3年間、日本軍慰安婦の生活をした?
次は、2004年12月4日の京都実行委員会主催「12・4全国同時証言集会「消せない記憶」―日本軍「慰安婦」被害女性を招いて」の李容洙証言をもとにしたプロフィールである。
1928年、韓国の大邱(テグ)生まれ。1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。
その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた。「解放」(日本の敗戦)後、しばらくしてから韓国に戻る。
3年間、日本軍慰安婦生活をしたという部分に注目しよう。日本軍は周知のとおり1945年に敗戦し、台湾から撤収した。ならば、どうして1944年に日本軍慰安婦になったということと、3年間日本軍慰安婦の生活をしたということを同時に言うことができるのか。一つの証言の中で明らかな矛盾が露呈しているのだ。
次は、2006年7月6日、東亜日報とのインタビューだ。今度は、家で寝ていたころを日本軍によって連れて行かれたのだそうだ。(リンク:「政府、日本に対して外交的努力をしていない」慰安婦109人憲法訴願)
「十五歳だった1942年ごろ、家で寝ていたところを日本軍によって台湾に連れて行かれた。その後、私の体と生活は満身創痍になった。ところが政府がしてくれたことは何もない。私たちは韓国の母でもなく、娘でもないというのか」
5日午前、ソウル鍾路区チェ洞憲法裁判所に憲法訴願審判請求書を出しに来た日本軍慰安婦出身の李容洙ハルモニ(79)は、こう言って泣き叫んだ。
日本軍慰安婦として連れて行かれた経緯だけが変わったのではない。時期が1942年で、そのとき15歳だったというふうに、日本軍慰安婦に連れて行かれた年と年齢も変わった。
(写真)
▲李容洙の最初の日本軍慰安婦関連の証言が掲載された本『強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集』(ハヌル)。本書の初版は1993年に出版された。
(写真:1997年9月6日付「ハンギョレ」)
▲ 1997年以前の記事では、「日本軍」によって直接拉致され、日本軍慰安婦になったという内容は出てこず、1993年の証言集と大差のない内容になっている。
14歳? 15歳? 16歳? 1942年か、1943年か、1944年か
2007年2月15日の米国議会証言に関する報道を見てみよう。日本軍慰安婦として連行された年が再び1944年に変わる。(リンク: <「慰安婦」米下院証言録> )
メディア・ウォッチ2018年4月14日
「従北」文在寅の「嘘つきハルモニ」、日本軍慰安婦李容洙(1)
李容洙と挺対協のせいで国際詐欺劇に転落する危険に直面した韓国の日本軍慰安婦問題
シン・ギュヤン記者
李容洙(イ・ヨンス)は朝鮮人出身の日本軍慰安婦たちの中でも、まさに「アイコン」として通じる人物だ。
日本軍慰安婦の生存者は数十人だが、主なメディアからスポットライトを当ててもらっているのは、主に「韓国挺身隊問題対策協議会」(以下、挺対協」)とともに活動している4、5人に限られる。李氏は、その中でもユン・ミヒャン挺対協常任代表のパートナーとして最も活発に対外活動を行ってきた代表格だ。
しかし、李容洙がはたして韓国民が一般に理解している「日本軍慰安婦」に当たるのかについて、事情をよく知るネチズンたちは以前から批判的な疑問を提起してきたのが実情だ。左翼百科事典の「ナムwiki」の利用者たちをはじめ、いくつかのオンライン論客たちの度重なる合理的な批判も、代表的メディアは、過去十数年、李氏の問題に知らんぷりを決め込んできた。
何よりも李氏は、日本軍慰安婦問題の核心である日本軍による強制連行問題について、その証言が何度も変わった前歴がある。しかも李氏が、ほかでもなく「従北」団体の挺対協といっしょに、さまざまな理念活動、政治活動を続けてきたという問題も見過ごせない。
メディアウォッチの取材の結果、李容洙の年齢、結婚、職業など基本的な部分について、正体が疑わしい状況も一つや二つではないということが確認された。
日本軍慰安婦の証言は絶対に疑うべからず?
李容洙の1993年の本人の証言と、1997年の「ハンギョレ」の記事によると、李氏は、1944年10月、日本軍慰安婦として募集され、1945年1月から台湾の新竹空軍基地の隣の慰安所で、終戦まで日本軍慰安婦の生活をした。7~10か月ほど慰安婦生活をしたわけだ。
初期の証言によると、李容洙は1日に5〜6人の日本兵の相手をしたそうだ。初期の証言では、神風特攻隊だったという「長谷川」という日本軍将校が彼女を助けてくれ、二人でロマンチックな愛を育んだという話も出てくる。
しかし、李氏は1990年代後半から、自分が「1942年に14歳で日本軍慰安婦として連行され、台湾で3年間日本軍慰安婦の生活をした」というふうに、証言内容がころころ変わり始めた。また、あとになると、一日に相手をした日本兵の数も、最初に言っていた5〜6人から、少なくとも20人、最大で70人へと急増し始めた。
1993年に李容洙を取材した「ハンギョレ」の記事を見ると、解放後、飲み屋の従業員や家政婦などをしていたが、日本軍慰安婦問題が話題になる前の87年に、60歳で75歳の老人の後妻になったという話も出てくる。婚姻届まで出したそうだ。
しかし、2007年のEBS放送「時代の肖像」の証言では、李容洙は、日本軍慰安婦問題が話題になるまで結婚せずに生きてきたと話している。
信じられないが、このように錯綜した証言は、すべて李容洙一人の口から出てきたものであり、100%書証からも矛盾が確認されている。
(写真)
キャプション▲日本軍慰安婦李容洙と尹美香挺対協常任代表はパートナーとしてさまざまな政治活動、社会活動をいっしょに行ってきた。
(写真)
キャプション▲日本軍慰安婦李容洙の虚偽証言、証言の矛盾の問題があまりにも深刻なため、「木wiki」はその左翼的傾向にもかかわらず、これを批判的に扱っている。そのほかGoogle、ネイバーで「李容洙」、「証言」、「矛盾」で検索語すると数多くの李容洙の虚偽証言、証言の矛盾に関するコンテンツが確認される。
(写真)
キャプション▲日本軍慰安婦李容洙の証言の変化は、常識を越える水準だ。上記の表の証言は、どれも主要メディアのインタビューや米国議会、フランス議会で出てきたものだけを集めたもので、このような重要な証言も到底つじつまが合わない。これらの証言は記事本文で詳しく扱うことにした。
1993年の証言では、就職詐欺で日本軍慰安婦になったと証言
まず、李容洙の1993年の証言から見てみよう。次は、「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集」に収録されている(123〜124ページ)。これは、今はなぜか閉鎖されている女性家族部のウェブサイト「日本の慰安婦被害者E歴史館」にも載っていたもので、インターネットでも簡単に検索できる。
1944年、私が満16歳の秋のことだ。そのとき私の父は米倉で米を運ぶ雑役夫として働いていた。私と同い年の友だちにキム・プンスンという女の子がおり、その母親は水商売をしていた。ある日、私が彼女の家に遊びに行くと、母親が「おまえは、履き物ひとつ正しく履けないなんて、どういうこと? おまえなんか、うちのプンスンといっしょにあっちへ行ったらいい。そこに行けば何でもあるよ。ご飯もたくさん食べられるし、お前の家も楽にしてくれるよ」と言った。そのときの私の服がぼろぼろで返す言葉がなかった。
数日後、プンスンと川でタニシを捕っていると、向こう岸の土手の上に立っている知らないおじいさんと日本の男が見えた。おじいさんが私たちを指さすと、男が私たちのほうに降りてきた。おじいさんは立ち去り、男が私たちに手招きした。私は怖かったが、プンスンは気にせずに川を飛び越えて向こう岸に行った。
ところが、数日経ったある日の明け方、プンスンがうちのポンチャン(土壁につくられた枠のない窓)を叩いて「そっと出ておいで」とささやいた。私は忍び足でプンスンについて外に出た。母に何も言わずに、ただプンスンについて家出をした。家で着ていた黒いチマとボタンのついた長い木綿のチョゴリ姿で、げたをつっかけていた。行ってみると川で見た日本人の男がいた。彼は四十足らずに見えた。国民服を着て戦闘帽をかぶっていた。彼は私に布袋を一つ渡し、中にワンピースと革靴があると言った。袋をちょっと覗くと、ほんとうに赤いワンピースと革靴が見えた。それをもらって、子供心になんてうれしかったかわからない。それで、何も考えずにあっさりとついていくことにした。私を含め、未婚女性5人だった。
そのまま駅に行き、汽車に乗って慶州に行った。私は、生まれて初めて汽車に乗った。慶州に行って、ある旅館に入った。旅館の前の小川で手を洗っていたとき、山すその斜面に紫色の花が一輪咲いていた。生まれて初めて見る花なので何の花かと聞いてみたら、桔梗の花だと言われた。そこで二日ほど過ごしたが、その間にまた女性が二人連れてこられた。それで女性が7人になった。慶州から汽車に乗って、大邱を通った。走る汽車の割れた窓ガラスの向こう側に、自分の家が見えた。その時になって初めて家のことを思い出し、母に会いたくなった。私は、お母さんのところへ行くと言って大泣きした。布袋を押しやって、これいらないから、家に帰してよと言って泣き続けた。泣き疲れてぐっすり眠りこんでしまったので、どのぐらい汽車に乗っていたかわからない。何日か乗っていたようだ。
これがはたして日本軍による強制連行だろうか? この証言だけでは、友だちの「キム・プンスン」の誘いと本人の自発性による家出、そして水商売をしていた「キム・プンスン」の母が「キム・プンスン」と李氏を人身売買の対象にしたと見るほかない。その種の業者による誘引詐欺も疑われる。
特に李氏のこの1993年の証言は、とても具体的である点が注目される。自分の服が「黒いチマとボタンのついた長い木綿のチョゴリ姿」、自分を連れて行った日本人の男が「四十足らずに見えた」、その日本人男性が「国民服」と「戦闘帽」姿だった、自分を誘うために「ワンピース」と「革靴」をくれた、などというくだりだ。
これは李容洙が最も若い頃にした公式証言でもあり、誰が見てもこの証言の信憑性がもっとも高いと思われる。
李容洙はこうして業者たちに誘われ、台湾の日本空軍基地で慰安婦生活を始めることになる。「ハンギョレ」1997年9月6日付記事「慰安婦ハルモニ、泣かないで!―台湾新竹基地前/恥辱の現場を訪ねたハルモニの涙... 慟哭」という記事を見てみよう。
去る8月30日朝5時30分、台湾の台北から1時間ほど離れた新竹空軍基地の前。李容洙ハルモニ(72・大邱市達西区サンイン洞ピドゥルギアパート107棟113号)は、胸を押さえて座り込んだ。 「まさかと思ったが... 、ここが本当に」
「新竹」というおぼろげな記憶を頼りに探しに来た、身の毛もよだつ50年前の慰安婦生活は、空軍基地と基地の横を流れる小川、部隊の周りの防空壕は、戦時20数人の女性がいたという基地のそばの70代の老人の証言によって、生々しくよみがえった。「部隊の中だったと思う。最初は建物だったが、爆撃で崩れたので、板で仮設の建物を建てた」
第2次大戦が大詰めだった45年1月にここへ連れてこられた李ハルモニは、ここがどこかもわからないまま、日本の敗戦まで1日5〜6人の日本兵を相手にしなければならなかった。
総期間で見れば、1944年の秋に「国民服」と「戦闘帽」を身に着けたある日本人の男に会ったあと、日本の敗戦まで10か月間、日本軍慰安婦の生活をしたのだ。この期間もいったん覚えておいてほしい。
1990年代後半から行ったり来たりする李容洙の日本軍慰安婦募集に関する証言
しかし、李氏の上のような証言内容は、折から政権が左派政権に移った1998年以後、はっきりと変わり始めた。まず、「ハンギョレ」1998年5月6日付「慰安婦ハルモニ、政府支援金を拒否、李容洙氏など3人」という記事を見てみよう。
日本軍慰安婦として連れて行かれ、帰ってきた大邱地域のハルモニ5人のうち、李容洙ハルモニ(71・大邱市)など3人が、日本に賠償を要求しないという政府の方針に反発し、政府支援金3150万ウォンの受領を拒否した。慰安婦ハルモニたちが政府支援金の受領を拒否するのは今回が初めて。
李ハルモニらは、4日、政府支援金受領に関し、「今後、日本の民間資金を受けとらない」という覚書を受けとりにきた大邱市の関係者に会って、「日本政府に責任があるのだから、彼らから正式謝罪と賠償を受けなければならない」と言って、覚書作成と支援金受領を拒否した。14歳だった1942年、日本軍慰安婦として引きずられて行った李ハルモニは、去る92年、被害者らとともに10回以上も日本に渡り、日本政府の謝罪と法的賠償を求めてきた。
1993年にはっきり「1944年、16歳のとき」と言っていたものが、1998年には突然「1942年、14歳のとき」へと変わった。こんな変更を記者が勝手に行うことはありえない。
「ハンギョレ」の1999年3月6日付「軍慰安婦ハルモニ、大学院生に」という記事も見てみよう。満14歳と「満年齢」で表記されているが、やはり1942年に日本軍慰安婦として連行された年になっている。
日帝当時、初等学校を中退して夜学で漢文などを学んだ彼女は、かつて1942年に満14歳の花のような年齢で日本軍慰安婦として引っ張られて行き、解放翌年の46年に故国に戻った。
次は、日本共産党の機関紙『赤旗』2002年6月26日付だ。(リンク:元「慰安婦」へ補償を...参院議長らに法案成立要請)
同法案は、元「慰安婦」とされた人たちに謝罪の意を表し、その名誉回復のために必要な措置(金銭の支給を含む)を講ずると定めています。日本共産党、民主党、社民党の野党三党が前国会に提出し、継続審議になっています。
韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として、今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。
日本共産党からは吉川春子、八田ひろ子参院議員が同席しました。
14歳という内容に加え、銃剣で脅迫され「連行」されたという内容まで出てくる。銃剣を突きつけたのが誰なのかは語られていない。
1944年から3年間、日本軍慰安婦の生活をした?
次は、2004年12月4日の京都実行委員会主催「12・4全国同時証言集会「消せない記憶」―日本軍「慰安婦」被害女性を招いて」の李容洙証言をもとにしたプロフィールである。
1928年、韓国の大邱(テグ)生まれ。1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。
その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた。「解放」(日本の敗戦)後、しばらくしてから韓国に戻る。
3年間、日本軍慰安婦生活をしたという部分に注目しよう。日本軍は周知のとおり1945年に敗戦し、台湾から撤収した。ならば、どうして1944年に日本軍慰安婦になったということと、3年間日本軍慰安婦の生活をしたということを同時に言うことができるのか。一つの証言の中で明らかな矛盾が露呈しているのだ。
次は、2006年7月6日、東亜日報とのインタビューだ。今度は、家で寝ていたころを日本軍によって連れて行かれたのだそうだ。(リンク:「政府、日本に対して外交的努力をしていない」慰安婦109人憲法訴願)
「十五歳だった1942年ごろ、家で寝ていたところを日本軍によって台湾に連れて行かれた。その後、私の体と生活は満身創痍になった。ところが政府がしてくれたことは何もない。私たちは韓国の母でもなく、娘でもないというのか」
5日午前、ソウル鍾路区チェ洞憲法裁判所に憲法訴願審判請求書を出しに来た日本軍慰安婦出身の李容洙ハルモニ(79)は、こう言って泣き叫んだ。
日本軍慰安婦として連れて行かれた経緯だけが変わったのではない。時期が1942年で、そのとき15歳だったというふうに、日本軍慰安婦に連れて行かれた年と年齢も変わった。
(写真)
▲李容洙の最初の日本軍慰安婦関連の証言が掲載された本『強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち1:証言集』(ハヌル)。本書の初版は1993年に出版された。
(写真:1997年9月6日付「ハンギョレ」)
▲ 1997年以前の記事では、「日本軍」によって直接拉致され、日本軍慰安婦になったという内容は出てこず、1993年の証言集と大差のない内容になっている。
14歳? 15歳? 16歳? 1942年か、1943年か、1944年か
2007年2月15日の米国議会証言に関する報道を見てみよう。日本軍慰安婦として連行された年が再び1944年に変わる。(リンク: <「慰安婦」米下院証言録> )
◇ 李容洙ハルモニ「殴打、拷問、強姦で綴られた3年」
=最初の証人として出た李ハルモニは「私は歴史の生き証人」という言葉で始めた。悲しみがこみあげるように「私が経験したことをぜひお話しすべきだが、あまりにも恥ずかしい」と言ってすぐ目を涙で濡らした。そのあと、日帝が犯した蛮行を一つ一つ告発した。性奴隷として過ごしたかくも長き歳月についてもぶちまけた。
1928年、大邱で生まれた李ハルモニは、乳母として働く母親の代わりに弟の世話をし、綿糸工場に通っていたが、16歳だった1944年に軍慰安婦として台湾に連れて行かれた。
もともと綿糸工場に通っていたという話が出てくる。ところが、ここでは「連れて行かれた」(連行された)という表現は出てくるが、強制連行なのか、人身売買なのか、就職詐欺なのか、また連れて行ったのが日本軍なのか、慰安所業者なのかがはっきりしない。いずれにせよ、日本軍によるものだと証言していなかったことは明らかだ。はっきりそういう証言をしたのに、韓国人記者がそうした事実を漏らして報道することはありえないからだ。
注目すべきは、同じ記事の小見出しに「李容洙ハルモニ、「殴打、拷問、強姦で綴られた3年」」と書かれていることだ。メディアウォッチは、米国議会証言について報道した中央日報2007年2月17日付の「米国の心を揺さぶった韓国とオランダのハルモニの「慰安婦」証言」という記事と照合した結果、李容洙のそのときの発言は「1944年、16歳の時、台湾に慰安婦として連れて行かれ、3年間日本軍の性の慰みものになった」であったことを確認している。
だが、繰り返し指摘するが、1944年からどうやって3年間、日本軍慰安婦だったことがありうるのか。2004年の京都実行委員会の証言に続き、やはり一つの証言の中で明白な矛盾が出てきてしまっているのだ。
2007年6月12日に放映されたEBSの「時代の肖像―慰安婦と言わないで」でのインタビューを見てみよう。家の外に出たときに、日本軍に連れて行かれたという内容だ。(リンク:「私は慰安婦ではない、日本軍の性暴力被害者だ」)
「1944年10月のある夜、彼女が家の外に出たとき、わけもわからないまま、日本軍に連れて行かれたのは、台湾の日本軍慰安所だった。引きずられながら、「お母さん、お母さん...この人たちが私を殺そうとしている。お母さん、助けて」と泣き叫んた当時の状況を回想して、涙を浮かべた」
2009年3月、日本の性問題に関する評論家高柳美知子の「私は日本軍「慰安婦」だった」(新日本出版社)という証言集に収録されたもの(同書29〜30ページ)を見てみよう。ここに出てくる友人は一目で「キム・プンスン」とわかる。(リンク:トランプに抱き着いた「元慰安婦」李容洙の正体)
オンマは、生まれたばかりの弟のいる部屋の方にいました。わたしの家はわらぶき屋根の家で、後ろに小さな窓がありました。何か物音が聞こえたようなので窓の方を見ました。すると、数日前、ヨモギ採りにさそってくれた友だちが手招きしています。「なんだろう」
外に出てみると、友だちのそばに目深に帽子をかぶった軍人が立っていました。友だちは、その男から手招きされるようにいわれたといい、わたしに風呂敷包みを渡しました。さわってみると、そこには靴と服が入っているようでした。「いっしょに来い」
軍人はそういうと、歩き出しました。怖くなって逃げようとしたのですが、友だちが「行こう」といって歩きだしたので、わたしも風呂敷包みをもってついて行きました。近くの踏切まで行くと、そこに三人の女の人が待っていました。そして、そのまま軍人にま駅につれていかれ、五人は汽車に乗せられました。わたしはそれまで、汽車に乗ったことがありませんでした。怖さと不安と乗り物酔いで、わたしは吐きながら叫びました。「オンマ!オンマ!」
軍人はわたしを黙らせようと「チョウセンジン!」「チョウセンピー!」と怒鳴りながら、わたしの髪をつかんで床にたたきつけました。
「チョウセンジン!、チョウセンピー!)」という話は、今回の証言で初めて出てくる。李容洙はその証言集で「15歳の私に起こったこと」と語ったそうだ。
3年後、李容洙の証言はまたもや変わる。友人に呼ばれて外に出た後、軍人について行ったと言っていたのが、今度は、日本軍が家の中庭に入ってきて連れて行ったという。インタビューとは別の記事には、李容洙が17歳のときに連れて行かれたという内容もある。(リンク: 「本当に怖い隣国、日本を語る」日帝強制慰安婦李容洙ハルモニ)
第2次大戦末期、17歳の時に日本軍に強制的に連れて行かれ、2年間、台湾などで獣にも劣る強制慰安婦の生活をした。光復後、帰国して屋台、飲み屋などを転々としながら、貧困と離婚、病気で綴られた苦痛の生活を送っている。
そんな中、李ハルモニは、強制慰安婦の名誉回復のために渾身の力を振り絞っている。慰安婦の実状を知らせる映画に出演し、米下院聴聞会に証人として出席し、日本政府の公式謝罪と慰安婦決議案などを要求した。
(…)
―日本軍に連れて行かれひどい苦しみを味わった当時の状況は?
「大邱にある家の中庭にまで日本軍が入ってきて、連れて行った。汽車に慶州〜平安道アンジュ〜中国の大連まで行ったが、そこで軍艦に乗って上海〜台湾に行った。途中、同じぐらいの歳の女性を乗せた。言うことを聞かないと殴られた。アンジュで仲間と脱出を試みたが、仲間が死ぬほど殴られた」
次は2014年7月4日に行われた漢陽大学での証言だ。その前は寝ているところをいきなり連れて行かれたと言っていたが、今度は自分を誘う日本軍がいて逃げようとしたが、別の日本軍に捕まって連れて行かれたという証言をしている。(リンク:慰安婦ハルモニ、漢陽大で歴史の証言...「豚にも劣る生活だった」)
李容洙ハルモニは「私が15歳になった年のある日、日本の軍人が「こっちへおいで」と手招きをした」、「怖くて逃げたが、別の日本の軍人に捕まって、汽車に乗って、台湾のある日本軍部隊に連れて行かれた」と当時を回想した。
1993年の証言では、汽車に乗って大邱に行くまでは、日本軍への言及はなかった。しかし、2009年の「私は日本軍「慰安婦」だった」という証言集から、日本軍に捕まって汽車に乗って慰安所に行ったと証言していることがわかる。
慰安婦業者による「就職詐欺」か、日本軍による「強制連行」か
次は、2014年に「アジア経済」が企画した「慰安婦報告書55」(リンク)の李容洙のプロフィール内容である。この55という数字は、当時生存していた日本軍慰安婦の人数だ。
「16歳のとき、ワンピースと赤い革靴を見せ「腹いっぱい食べさせてやり、家も楽にしてやる」という日本人男性の言葉にだまされ、友だちと一緒について行った。中国を経て、台湾の慰安所に強制動員された。慰安所の主人だった。この主人から電気拷問もされた」
1993年の、もともとの証言内容に戻ったことがわかる。強制連行という内容もまた就職詐欺に変わった。年齢も16歳だ。
「慰安婦報告書55」は、「第288回今月の記者賞企画報道賞」を受けたが、「アジア経済」側は3か月間、日本軍慰安婦たちに会ってインタビューをしたものと述べている。(リンク:慰安婦報告書55-第288回今月の記者賞企画報道新聞・通信/アジア経済チュ・サンドン記者)
次は2015年3月12日の人文学の集い「トゥー:モク会」が主催した「李容洙ハルモニの歴史の証言」での李容洙証言だ。16歳だった1943年の「夏」に日本軍によって慰安婦として連れて行かれたと証言している。(リンク:「私は神風性奴隷、考えただけでも...悪い奴ら」)
大邱のコソン洞で生まれた李容洙ハルモニは16歳のときに、ほかの4人の近所のお姉さんたちと一緒に日本軍に連れて行かれた。1943年の夏のある日だった。李ハルモニは「鼻と口しか見えない帽子をかぶった軍人が私たちを連れて行ったのだが、そのときはいたずらだと思っていた」と話した。どこに行くのか、なぜ連れて行くのかもわからなかったそうだ。
1943年からだとすれば、日本軍慰安婦生活を2年間したというわけか。以前は3年間と言っていたのではないか。
李容洙は2015年4月に日本安倍首相が米国議会合同演説をしたとき、これを批判するために米国のワシントンに行った。李容洙は、当時世界的な有力メディアだったワシントンポストのインタビューを受けたが、この内容を見てみよう。(リンク:70年後、一人の韓国人「慰安婦」が日本に謝罪を要求している)
「私はあまりにも幼かったので、最初はほかの女の子が私を守ろうとしてくれた。私は兵士たちが彼女たちの上に乗ったのを、つまり襲ったのを見たが、彼女たちは毛布を私にかぶせ、私に、静かに息をひそめていれば何も起こらないよと言った。私は、彼女たちが言う意味がわからなかった。私は14歳で、私はそのとき何も知らなかった」
李容洙さんがフェアファックスの友人宅で火曜日にインタビューされたところでは、彼女の悪夢は1943年10月のある日、始まった。李さんが自分の農家で寝ていたとき、ある隣人の悲鳴を聞いて外に出た。まもなく、彼女は自分と他の4人の少女たちが、日本軍によって一列になって引っ張っていかれた。そして、汽車、トラック、船での旅をさせられた」
李容洙さんがやっと救出され、戦後、家に帰された時、彼女は17歳だった。しかし、さまざまなことがあり、彼女の人生は慰安婦の苦境が知られるようになってから、ふたたび動き出すことになった。
14歳のときに連れて行かれたということだ。1943年「10月」だ。ところが直前の人文学の集いでは「夏」と言ったではないか。そして1943年10月から1945年8月までなら、日本軍慰安婦生活の期間はやはり2年になる。
日本軍によって汽車、トラック、船で連行されたそうだ。1993年の証言でも汽車に乗って慶州と大邱に行ったという内容が出てくるが、そこには日本軍についての内容は一切なかった。
(写真:1998年5月6日付「ハンギョレ」)
キャプション▲ 李容洙についての報道は、だいたい1998年ぐらいから変わり始めているようだ。ハンギョレは、李容洙が14歳の1942年に慰安婦として連れて行かれたという報道をし始める。
(写真:1999年3月6日付「ハンギョレ」)
キャプション▲ この報道はただの14歳ではなく「満」14歳のときに慰安婦として連れて行かれたと報道している。
「神風」日本空軍基地なら1943年、1942年はでたらめ
翌日の2015年4月23日、ウェブマガジン「ニュースで」(「ニューシス」が再録)とのインタビューを見てみよう。この証言は、最初からおかしい。
日本の安倍首相は慰安婦について、日本軍による強制連行を否定し、民間の業者による人身売買を主張している。この場合、反駁するなら当然、「強制連行が正しい」、「日本軍」が連れて行った」と言わなければならない。しかし李容洙は連れて行った主体を「日帝政府」と言いつつも、どこかしら曖昧な答え方をする。(リンク:「安倍、ワシントンで私を見なさい」慰安婦被害者李容洙ハルモニが一喝)
「安倍首相が言うには、戦争のあるところ慰安婦の女性あり、ということだが、これほどの妄言があるでしょうか。日帝政府が日帝軍人たちのために慰安所を作り、慰安婦を強制的に連れて行ったのではないですか。両親と6人兄弟の幸せな家庭の15歳の一人娘に人間とは到底いえない性奴隷にしておいて、今になって人身売買されたという安倍首相の妄言に鬱憤がこみ上げました。
このインタビューを子細に読むと、李容洙が日本軍敗戦時期を正確に認識していることがわかる。
世の中のことを何一つ知らない15歳の子どもが連れて行かれたのは、日本が占領した台湾の新竹神風空軍部隊です。その部隊の21歳の日本の軍人が年子(トシコ)という名前をつけてくれ、恥辱の性奴隷生活をしました。ある日、部隊で飛行機の清掃の仕事などをしている台湾の労務者が、塀の向こうから、戦争が終わったと教えてくれたのです。その後、収容所を経て、1946年に家に帰ることができました。
このインタビューには、李容洙が最初に台湾の日本空軍基地の慰安所に行かされた時期がわかる重要な手がかりがあるのだが、それがまさに「神風(自殺攻撃)空軍部隊」だ。
李容洙は、ほかで行った証言でも、自分の面倒を見てくれた日本軍将校も「神風」で死んだと明かしたことがある。
日本軍の「神風」は1944年10月頃から始まった。李容洙が慰安婦生活を始めた所が、「神風」攻撃をする台湾の日本空軍基地の慰安所なのだが、1943年や1942年には「神風」のようなものは、ありえなかった。
李容洙ははたしてどんな根拠で1943年とか1942年という主張をしているのだろうか。
最初の証言では、「キム・プンスン」と一緒に日本軍慰安婦になったと証言した李容洙
一方、そのインタビューの中には、どう考えても「金プンスン」としか思えない人物の話も出てくる。
「故郷の家に戻ったあと、一人の女性が襟巻で顔を隠して訪ねて来たことがあったんです。死ぬ前に告白しなければならないことがあると言うのです。「私は、あなたを連れて行くときにあなたの家に日本の軍人と一緒に来た者だ。あなたに話をしないと私の気持ちが安らかにならないので、やって来た」と言いました。素顔を見せたその女性は、性病にかかって苦しんでいました」
李容洙は1993年の証言ではっきりと友だちの「金プンスン」が日本の男性と一緒に来たと証言した。そして、その「金プンスン」と一緒に日本軍慰安婦になったと証言した。
2015年6月24日、隔週刊誌「未来韓国」とのインタビューを見てみよう。日本軍が女の子であることいいことに自分を暴行、拉致したそうだ。ここで再び1943年「秋」になり、16歳に変わる。(リンク:李容洙日本軍慰安婦被害者ハルモニ「私の願いは、韓国と日本が敵対しないこと」)
李容洙ハルモニは1943年の秋、韓国の年齢(数え年)で16歳のとき、ほかの女の子4人と一緒に日本軍2人に連れて行かれた。家で寝ていてわけもわからないまま拉致されたハルモニは、汽車列車に乗って慶州、平壌を経て、中国の大連まで行った。ハルモニは大連から船に乗って、台湾北西部の新竹にある日本神風部隊の慰安所に送られた。
「私の故郷の家は藁ぶき屋根の家でしたが、部屋に小さなポンチャン(土壁につくられた枠のない窓)がありました。そこに帽子をかぶった軍人と女の子が一人いたのですが、その子が出ておいでと手招きしました。寝ていて何のことかわからずに土間に座っていると、いきなり誰かが私の口をふさぎ、何かとがったものを背中に突きつけるのです。そのまま、ほかの女の子4人と一緒に汽車に乗せられました。そのとき「私は行かない」、「お母さんのところに行くんだ」と言って、ひどく殴られたんです」
この証言は、寝ているところを連れて行かれたという内容、また家の外に出たがわけもわからないまま引っぱっていかれたという内容が合わさった形で、さながら総合詳細説明といえる。しかし、またも日本軍に言及するなど、とにかく1993年の証言とは顕著に異なっている点を指摘していないわけにはいかない。
ここで「女の子」がまさに友だちの「キム・プンスン」ではないのか? 李容洙は1993年の証言で「キム・プンスン」が自分の家の「ポンチャン」を叩いて「そっと出ておいで」と言うので、そのまま家を出て、後に一緒に日本軍慰安所に行くことになったと証言している。
李容洙が初期に行った「キム・プンスン」に関する証言と、その後に行った証言が論理的に食い違わないように、すべて集めて無理やり脚色し、創作しているという感じがぬぐえない。
(写真)
キャプション▲アジア経済の2014年の企画記事「慰安婦報告書55」での李容洙のプロフィール
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キャプション▲ 李容洙の2007年の米国議会証言を扱った中央日報の記事
李容洙、まかり間違えれば謀害偽証罪で刑事処罰を受けかねない状況
李容洙のこのような行ったり来たりする証言は、結局本人の法的身分さえ危険にさらしかねない状況にある。李容洙は2016年12月20日、『帝国の慰安婦』を著した朴裕河世宗大教授の1審「求刑」に現れ、法廷で次のように証言した。(リンク:検察、『帝国の慰安婦』の著者朴裕河教授に3年求刑)
「16歳のときに寝ていたところを軍人に捕まって連れて行かれ、軍人の部屋に入らないからといって、電気拷問など、あらゆる苦痛を受けた。台湾の神風部隊に連れて行かれ、1946年に出てきた。朴裕河が妄言によって本を出した。あんな教授がどうやって学生を教えるのか。厳罰にしてくれ。悔しくてたまらない」
1946年に出てきたというのは、台湾から韓国に帰ってきたということのようだ。どうあれ、李容洙はまたもや家で寝ていたところを軍人に捕まって連れて行かれたと証言している。
ちなみに李容洙の上の証言は、一般証言ではなく、名誉毀損の被害者として刑事被告を相手にした法廷証言である。そのような法廷証言が虚偽であれば、謀害偽証罪の処罰対象になりうる。法廷虚偽証言を挺対協が使嗾した場合は、挺対協ももちろん教唆犯になりうる。
驚くべきことに、李容洙は、2017年1月25日、朴裕河世宗大教授1審「宣告」の現場では、就職詐欺にあったというふう、別の内容の話をしている。自分の話をしているのか、はたまたいったい誰の話をしているのだろうか。(リンク:『帝国の慰安婦』無罪にハルモニ「激怒」vs朴教授「満足」)
「工場に連れて行くと言っておいて、工場には送らずに性奴隷にしたとしたら、責任を負うべきじゃないのか」
2007年2月米国議会証言とき、李容洙が綿糸工場に通っていたと証言していたことを思い出そう。
下の2018年3月10日フランス議会での李容洙証言を見よう。日本軍が女の子であることをいいことに自分を暴行、拉致したという。年齢は再び15歳に変わる。2015年度の「未来韓国」のインタビューの内容に戻ってきたものだ。(リンク:仏議事堂を揺るがした慰安婦の証言)
「ある日、部屋の中にいたところ、女の子が窓の外で手招きをして私を呼ぶんです。友だちが遊びに誘っているのだと思って外に出ると、女の子は手で私の口をふさぎ、軍人が鋭いものを背中に突きつけたのです。そうして汽車の駅に連れて行かれました。15歳の時のことでした」
「女の子」のあとに、今度は「友だち」という表現が登場する。またしても「キム・プンスン」を思い出さざるをえない。
米国議会証言では、あんなにも重要な「日本軍」について言及もしなかったのに、11年も経ったフランス議会証言にいたり、ようやく「日本軍」が、それも暴行、拉致したと言う。今後、米国とフランスのどちらかの議会関係者が、この違いについて噛みついたらどうする?
(写真)
キャプション▲ 李容洙の2007年の米国議会証言を報道するSBSニュース
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キャプション▲ 李容洙の2018年のフランス議会証言を報道したチャネルA
国際詐欺劇に転落する危険に直面した韓国の日本軍慰安婦問題
結局、李容洙は、何の検証も受けず、過去25年間、このような日本軍慰安婦の証言をしてきた。
李容洙の証言の中には、頻繁に出てきた話(強制連行)もあり、それより少なく出てきた話(就職詐欺)もある。問題は、2つの話が特に日本政府に責任を問おうとする場合、そもそも本質の全く異なる話にならざるをえないということだ。
それでも李容洙がこれまで行ってきた証言の中で、比較的頻繁に出てきた話が、より真実に近いのではないかって? そうかもしれない。だが、そうだとすると、李容洙が今後10年間にするかもしれない証言で、ひょっとしてまったく異なる新しい話が出てきて、その新しい話をもっと頻繁にしたとしたら、その新しい話が真実になってしまうのか?
李容洙の「之の字」(ジグザグ)証言変遷史問題、いや、正確には虚偽証言の問題について、高齢の老人の記憶は行ったり来たりすることもありうるのではないか、あるいは虐待などによるトラウマを勘案すべきではないかと、感傷的に考えるのは難しい。
譲歩すべきではない問題だが、百歩譲って、年度や年齢は思い違もあるとしよう。けれども、慰安婦になった具体的な経緯についての陳述があんなふうに飛躍するのは、第3者が見たとき、記憶力だけの問題とは到底思えない。もともと記憶力に問題がある人の証言を聞くということ自体、真摯な姿勢とは言い難い。
今、日本軍慰安婦問題において、日本軍による朝鮮の幼い少女の強制連行が真実なのかどうかは、国際社会が大きな関心を持っている核心中の核心だ。さらに李容洙は、挺対協によって、これまでマスコミや政府から日本軍慰安婦の「代表」のような待遇を受けてきた。
国際社会が礼儀上、いい加減に見過ごしてくれるのも、一日か二日だ。李容洙の場合、まずは2007年の米国議会証言と2018年のフランス議院証言からして違っているのではないか。日本だけならともかく、たとえば米国議会、フランス議会でちょっと何かがおかしいんじゃないかというふうに、遅ればせながら再聴聞の要求が来たとしよう。国際社会に公開された最高の公的証言の問題だが、人が生きていれがそんなこともあるさ、なんていう言い訳がはたして通用するだろうか?
今、李容洙にあらためて慰安婦になった具体的な経緯や時期を聞いてみたとしても、国際社会も、国内外のメディアも、挺対協も、おそらく李容洙本人すら、どんな証言が出てくるのか誰も予測できない。
日本軍による朝鮮人未婚女性強制連行は、ただでさえ過去数十年の調査にもかかわらず、客観的物証が出てこなかった問題だ。日本軍慰安婦の証言を除いては、知り合いも、近所の「第三者の証言」(もちろん学界が広く認める信ずるにたるもの)も、ただの1件も出てこなかった問題なのだ。(関連記事リンク:映画「帰郷」の歴史歪曲と日本軍慰安婦の7つの誤解)
このような状況で、それでも唯一の証拠である「日本軍慰安婦代表」の「強制連行核心証言」が、こんなにも数えきれないほど揺れ動いてきたということが、海外にも知られた場合、今後、国際社会で日本軍慰安婦問題は、どのような扱いを受けることになるだろうか。何よりも、国際社会において韓国の国の品格はどうなるのか。
遅くなったが、誰かがこの危機的状況を警告し、すぐさま出口戦略を立てようと言わなければならないのではないか。
[編集者注]本企画の記事はその内容上、真実性があり、公共性があり、違法性がないことの条件は完全に満たされているが、いずれにせよ、日本軍慰安婦李容洙と李容洙と密接な関係にある文在寅大統領への明白な卑下(名誉毀損)の内容が含まれていることを告知します。韓国挺身隊問題対策協議会(代表ユン・ミヒャン)についてもやはり同じです。
日本軍慰安婦李容洙(2)
日本軍慰安婦李容洙(3)
日本軍慰安婦李容洙(2)
日本軍慰安婦李容洙(3)
どちらも長いです。