犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

伯母の死

2016-02-19 23:09:42 | 思い出

 先日、私の父方の伯母が92歳で他界しました。肺炎を起こして入院後、しばらく寝たきりの状態でしたが、心不全で静かに亡くなったとのことです。

 伯母は大正12年生まれ。

 銀座に住んでいた私の祖父母は、大正12年の9月に関東大震災に遭いました。臨月だった祖母は、火に包まれた都心から逃げまどい、歩いて品川の親戚の家までいったあと、5日後に予定日よりかなり早く伯母を出産したそうです。

 姑(祖父の母)からは、「妊婦が火を見ると子どもの顔にあざができる」と言われましたが、あたりは火の海で、火を見るなというのは無理な話。幸い、伯母の顔にはあざはありませんでした。

 明治生まれの祖母は、尋常小学校、高等小学校を卒業後、女学校に行ってさらに勉強したかったそうですが、旧式な父親から「女は勉強なんてすると生意気になる」と言われて断念。そのかわり、自分の子どもたちにはできるだけよい教育を受けさせたいと思ったのでしょう。伯母は女学校にも通わせてもらったそうです。しかし、女学校を卒業するころには、日本に戦争の影が迫っていた。伯母は、女学校の成績は優秀だったのですが大学には行かず、裁縫などを習い、終戦の間際には挺身隊で軍服などを縫う仕事もしたようです。

 戦後は、裁縫で身を立てながら、親の決めた縁談で結婚。しかし、相性が合わなかったのでしょう。3年半で離婚。子どもの頃に習った三味線をいかし、昭和30年代に東京で流行っていた「小唄」の家元について師匠になり、その後は弟子をとって生計を立てていました。

 私が生まれたころは、わが家に二階を増築し、そこを稽古場にしていたため、わが家ではいつも三味線の音が聞こえていました。

 それから50年。父、母、弟(私の父)が亡くなり、最後は義妹(私の母)と二人で暮らしていましたが、その義妹も今から二年前に死去。残っている身内は、私と兄という二人の甥のみ。伯母とはいえ、生まれてから20年以上家族としていっしょに暮らしていましたから、ほうっておくわけにはいかず、1年ほどは私が同居して面倒を見、大阪転勤後は兄の家族といっしょに住んでいました。

 葬儀の後、兄が一通の手紙を見せてくれました。伯母から私たち甥宛に書かれた遺言書のようなもので、達筆な字で、私たちに対する感謝と、自分の人生を簡単に振り返った内容が記されていました。

 自分のわがままで結婚生活が三年半で終わったこと。相手からは愛されていたのに別れてしまって後悔していること。当時の自分は世間知らずのお嬢さんだったこと…。

 20年近く前に舌癌を患い、舌を半分切除してしまったので、言葉は聞き取りにくかったですが頭はしっかりしていたので、文章も整っていました。

 子どもがなく、老後に対してずいぶん不安に思っていたことでしょうけれど、私の知る限り一族の中でもっとも長生きしました。

 大正、昭和、平成という三つの時代を生き抜き、最後は、特に痛みも感じることなく眠るように亡くなったとのこと、幸せな生涯だったのではないかと思います。


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