犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

故文玉珠さんの場合

2016-05-20 23:22:47 | 慰安婦問題

 朝日新聞に、「慰安婦問題を考える」という大きな記事がありました(→リンク)。3月の記事(→リンク)に続く、慰安婦問題の検証記事のようです。

 とりあげられていたのは、元慰安婦の故文玉珠(ムン・オクチュ)さん。

 元慰安婦の証言は、裏付けのとれないものが多いので、その信憑性が疑われたりするのですが、文さんの証言は珍しく部分的に裏がとれています。これはひとえにフリーライターの森川万智子さんの精力的な取材のおかげです。

 森川さんが文玉珠さんに密着取材し、『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』(初版1996年、増補版2015年)をまとめた経緯はまえに書いたことがあります(→リンク)。

 朝日新聞の記者は、今回の記事のためにあらためてミャンマーに取材に行き、慰安所の写真を撮ったり、近所に住む老人に話を聞いたりしてきたようです。

 文さんは、森川さんの本以外にも複数の証言を残しており、それぞれの証言の異同について分析したサイトもあります(→リンク)。

 今回の朝日の記事では「ビルマ戦線を転々 証言と記録一致」という見出しのもとに、文さんの一回目の旧満洲での慰安婦経験についても言及しています。しかし、この満洲についての証言にはそれを裏付ける「記録」がないので、誤解を招く構成です。

 満洲で文さんは、「日本人と朝鮮人の憲兵や刑事に呼び止められた」(森川さんの本、1996年の裁判所の陳述書、速記録)とか、「軍服を着た日本人に引っ張られた」(『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』1993年)などと証言しており、「日本人による強制連行」を思わせますが、1991年の裁判の訴状には、満洲の話がないそうです。

 91年時点で話さなかった理由について、文さんは

「昨年、若い頃検番で知り合った李さんのすすめで、はじめてこの事実を申告した時にも、中国の話は明らかにしませんでした。その時は、はずかしいことをみんな話そうかどうしようかと迷って、南方へ行った話だけしました。けれども、私の話がみんな知られてしまった今、何をかくす必要があるかと思って、思い出すまま全部を話しました。今、すべてを話し終わって胸がすっとしました」

と話したとのこと。(証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(P.179)

 森川さんも旧満洲には足を運んでおらず、「旧満洲の東安省については、慰安所に閉じ込められていたらしく、彼女の記憶そのものが少ないので語られたことも少なく、解説を省きました」と書き、裏付けがとれていません。

 満洲時代の経験について語った証言の間の食い違いも多く、私は、この満洲の経験それものが架空のものではないかと疑っています。

 満洲以前にも、文さんは12歳のとき、日本の大牟田にある料理屋兼売春宿で、子守、掃除、洗濯などをする使用人として働いており、これについては森川さんが、証言通り「釜山館」という料理屋があったことを確認しています。

 そして、文さんが96年に亡くなったあと、97年に森川さんは三度目に取材に赴き、文さんが働いていた「オトメ」という慰安所を突き止めました(今回の朝日の記事に写真あり)。さらに森川さんは、初版で「ヤマダ・イチロウ」の名で登場していた文さんの「スーちゃん」(慰安婦たちが恋愛関係になった兵士をこう呼んだ)は、本名が「ホンダ・ミネオ」であって、その名前を、ミャンマーの僧院で見つけた戦没者名簿の中から探し当てたのです。森川さんの取材力はたいしたものです。

 朝日新聞の記事に戻ると、文さんの記事の中で唐突に吉見教授の話が挿入されています。

 吉見義明・中央大教授は文さんの「逃げられなかった。外出は許可制」との証言から「性の相手を拒否する自由、廃業の自由、外出の自由など重大な自由が剥奪された状態だった」とみている。

 文さんの証言には、高額な貯金や、買い物、宴会などの思い出が綴られているので、しばしば「性奴隷」の反証として挙げられることが多い。朝日はバランスをとるために、「性奴隷」派の吉見氏を登場させたのでしょう。

 しかし、吉見氏が編纂した「従軍慰安婦資料集」にある米軍資料には、こんな記述もあるんですけどね。

 ビルマでの彼女たちの生活は、ほかの場所と比べ、ぜいたくといえるほどだった。これは、ビルマでの2年目の生活において特に顕著だった。食料と物資は、配給にそれほど頼らずに、欲しいものを購入できる充分なお金をもっていたため、彼女たちの生活は良かった。彼女たちは、衣類、履物、巻き煙草、化粧品を買うことができ、軍人たちの故郷から送られてきた「各種慰問品」を、追加の贈り物としてもらうことができた。

 彼女たちは、ビルマに滞留している間、将兵たちといっしょにスポーツ行事に参加し、ピクニック、宴会、晩餐会に出席して、楽しく過ごした。彼女たちは、蓄音機をもっており、都市ではショッヒングも許可された

 彼女たちは、客を拒絶する特権を認められている。接客拒否は、客が泥酔しているときに多かった。

 1943年後半、軍は借金を完済した慰安婦に帰国を許可するという命令を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に戻ることが許された。(→リンク

 「性の相手を拒否する」こともできたし、「廃業する」こともできたし、「外出する」こともできたけれども、許可制で「自由に行うことはできなかった」のであるから、「重大な自由が剥奪された状態」、すなわち「性奴隷」だった、ということのようです。

 なお、上のリンク先にあるのは『慰安所日記』の巻末資料を韓国語から訳したものです。英語原文と日本語の概要(全訳ではない)は、次で見られます(→リンク。SEATIC時報113~115ページ(日本語)、177~179ページ(英文)。心理戦作戦班報告書118~123ページ(日本語)、130~136ページ(英文))

 吉見教授はまた、文さんの貯金について

「このうち2万560円分が45年4~5月の預け入れであり、ビルマでの激しいインフレを考慮すると、「貯金の大半は、軍票がほぼ無価値になった時期にもらったもの」と解説している」

のだそうです。


 しかし、「慰安所日記」には、

「朝食を食べ、横浜正金銀行に行って、慰安婦の貯金をし、帰りに床屋に行った」(44.3.25)

「西原君と横浜正金銀行の支店に行き、このたび帰郷した李○玉と郭○順の二人の送金をした」(44.4.14)

「正金銀行に行き、許可された金○守の送金、1万1000円を送付した」(44.12.4)

などの記述もあって、これらは44年の話です。また文さんも貯金した時期は45ですが、お金をもらった時期はその前でしょうから、相当の価値があったのではないでしょうか。(→リンク

 朝日の記事は全体的に、両論併記の中立的な記事ですが、「じゃ朝日新聞はどう考えているのか」というのが伝わってきませんでした。


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