犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

徴用工と外相の面談

2022-09-03 23:19:26 | 近現代史
写真:釜山に設置された徴用工像


 韓国のパク・チン外交部長官(外相)が徴用工裁判の被害者と面談したそうです。

 それを伝えるハンギョレの記事がこちら(リンク)。

 一人は李春植(イ・チュンシク)さん。

「22歳の時、日本製鉄で苦労し、軍生活までしたが、賃金を受け取ることができなかった」


と語ったそうです。

 この人は、新日鐵住金徴用工裁判の原告の一人。

 判決文はここで見られます(リンク)。

 判決文の原告3の方です。

(4) 原告 3 は 1941 年に大田市長の推薦を受け報国隊として動員され、旧日本製鉄の募集担当官の引率によって日本に渡り、旧日本製鉄の釜石製鉄所でコークスを溶鉱炉に入れ溶鉱炉から鉄が出ればまた窯に入れるなどの労役に従事した。上記原告は、酷いほこりに苦しめられ、溶鉱炉から出る不純物につまづいて転び、腹部を負傷して 3 ヶ月間入院したこともあるが、賃金を貯金してやるという話を聞いただけで、賃金は全く支給されなかった。労役に従事している間、最初の 6 ヶ月間は外出が禁止され、日本憲兵たちが半月に一回ずつ来て人員を点検し、仕事に出ない者には仮病だと言って足蹴にしたりした。上記原告は 1944 年になると徴兵され、軍事訓練を終えた後、日本の神戸にある部隊に配置され、米軍捕虜監視員として働いていたところ解放になり帰国した。

 釜石製鉄所に入ったのは1941年です。朝鮮半島で徴用が始まったのは1944年ですから、徴用ではありません。判決文にも「大田市長の推薦を受け報国隊として動員され、」と書いてあります。1944には「徴兵」されたということですね。

 そして、「賃金を貯金してやるという話を聞いただけで、賃金は全く支給されなかった」となっています。

 釜石製鉄所では賃金が払われなかったと証言していますが、同製鉄所の資料には、未払い金が「23.80円」となっているそうです。当時の賃金は月60~100円。李春植さんは、賃金を正常にもらっていたのに、「もらわなかった」と言っている疑いが濃厚です。

 ハンギョレの記事にある、もう一人はヤン・クムドクさん。

 こちらは2019年1月に判決が出た、女子勤労挺身隊関連裁判の原告6人のうちの一人。

 ヤンさんは1944年5月、三菱重工業名古屋航空機製作所に動員されたということです。

 そして、外交部長官に対して口頭および書面で、

「2009年、厚生年金脱退手当として1000ウォン(99円)を受け取った」

「小学校6年生の時、日本に行って死ぬほど働かされて、お金はもらえなかった」


と言っているそうです。

 厚生年金は賃金の中から天引きされていたわけですから、賃金が払われていた証拠です。

 これは以前、指摘したことがあります。

「強制連行」に新事実

 また、同じ三菱重工を相手にした訴訟の原告、金福礼(キム・ポゲ)さんは、次のように証言しているそうです。

「給料は年齢のよって少しずつ違いました。私は30円だったと思います。ちゃんとくれましたが、買うものなんて何も売ってないので、貯金して故郷に送りました」(伊藤孝司編著『〈証言〉従軍慰安婦・女子勤労挺身隊』風媒社1992年、『反日種族主義との闘争』pp.114-115より)

 ヤン・クムドクさんも、実際にはもらっていたのにもらっていなかったと言っているのでしょう。

 韓国の検察・裁判所のおかしいところは、日帝の被害者(軍慰安婦を含む)の証言は、裏付けなしに正しいと認定されるところです。被害者は神聖であり、疑うことは許されない、とでも考えているんでしょうか。

 韓国では誣告(虚偽にもとづいた告訴)がきわめて多いといわれています。徴用工裁判も誣告の可能性が高いのに、日本や日本企業相手だから、嘘をついてもいいということなのでしょうか。

 裁判の判決は、簡単に言えば、「日本の植民地支配は不法だった。その中で苦痛を受けた人々には慰謝料を請求する権利がある」というものです。したがって、給料が支払われたかどうかは関係なく、「被害者」が「苦痛を受けた」と言えば、それで充分ということなのでしょう。

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