中央日報に、また「軍艦島」に関する記事が出ました(リンク)。
産経は「捏造だ」というが、そんなことはない、という趣旨のようです。この記事に挙げられた「史実」らしきものは…
敗戦直前の1945年ごろには約5000人が住んでいた。
軍艦島にも韓国人徴用者がいた。韓国人が初めて流入したのは1917年と推定され、37年の日中戦争後、その数は大きく膨らんだ。生存者の証言によると、1943年から45年の間に約800人の韓国人が働いていたものと推定される。
劣悪な環境で病気になったり、炭坑事故や栄養失調で死亡したりする人々が多かった。逃亡を試みたが溺死する場合もあった。1986年、日本の市民団体が発見した当時の死亡診断書によると、韓国人122人が事故死・窒息死・圧死などの理由で死亡した。
要約すると、
1945年の終戦時に(日本人、韓国人合わせ)約5000人が住んでいた。
1943~45年に、約800人の韓国人が働いていた。
韓国人122人が、事故死、窒息死、圧死などで死んだ。
ということになります。
2015年に、端島がユネスコ文化遺産に登録されたころの新聞記事に、こんなのがありました。
朝鮮日報2015年4月3日(リンク)
ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の23施設中、7施設に計約6万人の朝鮮人が強制徴用されていたことが3日、分かった。韓国外交部が国会の東北アジア歴史歪曲(わいきょく)対策特別委員会に提出した資料で明らかになった。
資料によると、日本政府は製鉄所関連の9施設、造船所関連の5施設、炭鉱関連の3施設など計23施設の登録を推進している。国際記念物遺跡会議(イコモス)が5月中旬ごろに調査結果を提出し、6月末からドイツで開かれる世界遺産委員会で最終決定する。
23施設中、7施設には日本による植民地時代に朝鮮人5万7900人が強制動員された。高島炭鉱に4万人、三井三池炭鉱と三池港に9200人、長崎造船所に4700人など。強制動員された朝鮮人のうち、94人は死亡、5人は安否が確認されていない。
出所は韓国外交部。要旨は、
日本がユネスコの世界文化遺産登録を目指している23施設中、7施設に5万7900人の朝鮮人が強制動員(強制徴用)されていた。
そのうち94人が死亡、5人は安否不明。
この資料では、朝鮮人の死亡者は、5万7900人中99人(安否不明を含む)
一方、同じころの中央日報は次のように伝えます。
2015年5月14日、中央日報(リンク)
日本がユネスコ世界文化遺産の登録を推進する端島炭鉱で、強制労働をさせられた朝鮮人がどんな生活を送っていたのかを物語る資料が出てきた。国務総理室所属の「対日抗争期の強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者の支援委員会(支援委)」が作った「死亡記録を通じてみた端島炭鉱強制動員朝鮮人の死亡者被害実態基礎調査」だ。日本の市民団体「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」などが探し出した死亡記録を基に作った報告書だ。
13日、この報告書によれば端島炭鉱には朝鮮人600人が連行されて122人が死亡した。およそ5人に1人が亡くなったことになる。このうち17歳以上の92人について死亡原因を分析した。病気が28人で最も多く窒息・溺死のような変死が24人、炭坑事故が17人だった。
ここには、
「朝鮮人600人が連行」
「600人中122人、5人に1人が死亡」
「死因は、92人中、病気28人、窒息・溺死24人、事故17人」
などとなっており、出典は、韓国の「対日抗争期の強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者の支援委員会」が作った「死亡記録を通じてみた端島炭鉱強制動員朝鮮人の死亡者被害実態基礎調査」で、さらにその出所は「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」になっています。
ただ、韓国の報告書はそれよりも前に作られたもののようで、ハンギョレ2013年8月15日の記事にも出てきます(リンク)。
軍国主義日本が1937年に中日戦争を起こした後、端島に強制的に連れて来られた韓国人は500~800人に増えた。「対日抗争期強制動員被害調査委員会」報告書によれば、1925~45年に端島で亡くなった韓国人は122人だった。 窒息・外傷・変死などが圧倒的だった。殴打や苛酷行為、脱出試図に伴う事故を推察させる内容だ。戦争末期には労働強度がさらに強化され、44~45年の韓国人死亡率は日本人の4.7~5.5%より倍以上高い12.3~13.9%であった。
ここでは、
「1937年以降、端島に強制連行された韓国人は500~800人」
「1925~45年に端島で亡くなった韓国人は122人」
「窒息・外傷・変死などが圧倒的」
「44~45年の韓国人の死亡率は12.3~13.9%(日本人は4.7~5.5%)」
などの記述があります。
韓国政府の報告を最初に伝えたのは、2012年10月4日の聯合ニュース(リンク)。
聯合ニュース 2012年10月4日
日帝「監獄島」端島強制動員実態報告書公開
対日抗争期強制動員委「最大800人が動員と推定」
生存者「脱出のために身体切断まで考えた」と証言
日本、世界文化遺産登録を推進、関連事実に言及せず
(ソウル=聯合ニュース)イム・ギチャン記者=日帝強占期、過酷な自然環境と労働条件で悪名が高く、「監獄島」と呼ばれた端島炭鉱の朝鮮人強制動員の実像を体系的にまとめた政府報告書が初めて公開された。
国務総理所属対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会は、5月に作成を始めた「端島炭鉱の朝鮮人強制動員被害実態の基礎調査報告書」がこのほど完成したと、4日、発表した。
日本の長崎港から18キロ離れた端島は南北480m、東西160m、面積6.3ヘクタールに過ぎない小さな島で、19世紀後半、炭鉱開発が本格的に始まった。
この炭鉱に強制動員され、死亡が確認された朝鮮人は122人である。
委員会は、過去、日本で作成された死亡者火葬申請記録、独自に実施した生存者の面接調査などをもとに、当時の端島の実像を再構成した。
生存者たちの証言を見ると、海底炭鉱である端島炭鉱は深いところで地下1,000メートル以上に達し、採炭作業をすると海水が坑内に雨のように降り注いだ。塩分が強い海水を浴びて、作業者たちの皮膚はただれ、ひどい炎症を起こした。
炭鉱の中にはメタンガスなどが大量に含まれており、ガスが岩壁を突き破って瞬間的に噴出する「ガス突出」現象が起こりやすかった。このため、日本人は、ガス突出の危険がある区域を嫌がり、そのような場所には朝鮮人や中国人が投入された。
作業中、落盤、落石事故もしょっちゅう起こった。現場は深海底だったので、坑内の温度は非常に高かった。ある生存者は「坑内は立つことさえできないほど狭く、温度は45度を超えていた」と述べた。
当時、端島はマンションのような高層建築が建てられていたが、朝鮮人は、海岸にある建物の下層階の「飯場」(労働者の宿舎)で生活していた。端島周辺は波が非常に高くて荒れており、海水が宿所の中の侵入するのが常だった。
「監獄島」という別名にふさわしく、端島は外部と徹底的に隔離されていた。一部の労働者たちが危険を冒して脱出しようとしたが、たいていは捕まり、激しい拷問を受けた。一部の生存者は、「とても辛くて島を出ようと身体切断まで考えた」と証言した。
端島に動員された朝鮮人の多くは、1945年8月、近くの長崎市に原爆が投下されると、市内の復旧作業に投入された。彼らはその過程で残留放射能にさらされた。
日本政府と自治体は、端島炭鉱を含む自国の近代産業施設を2015年にユネスコ世界文化遺産に登録することを目標に、関連事業を推進している。
委員会のユン・ジヒョン調査官は「調査の結果、端島で朝鮮人が死亡した第一の原因は強制動員であり、第二の原因は劣悪な労働環境であったことが確認された」とし、「日本政府は、世界文化遺産への登録を推進しているが、このような事実に一切言及していない」と述べた。
端島は1890年から、代表的な戦犯企業である三菱が炭鉱開発のために所有していた。以後、石炭採掘が斜陽産業化すると、三菱は1974年の炭鉱を閉鎖し、2001年には管轄自治体に端島全体を譲渡した。
委員会は、さまざまな記録や生存者の証言などから、太平洋戦争末期の1944~1945年に端島に多ければ800人に上る朝鮮人が動員されたと推定した。委員会が被害者として公式に確認した人数は134人である。
ユン調査官は、「三菱がこの付近の炭鉱を閉鎖し、死亡者の納骨施設を破壊し、遺骨を無作為に処理したので、遺族の確認も困難な状況であり」、「日本政府と三菱に、必ず責任を問い、遺骨の返還を推進しなければならない」と述べた。
出所は、日本で作成された死亡者火葬申請記録と独自に実施した生存者の面接調査。
この炭鉱に強制動員され、死亡が確認された朝鮮人は122人
1944~1945年に端島に多ければ800人に上る朝鮮人が動員されたと推定
その後の韓国の多くの新聞記事は、結局のところ、この報告書によるものと見られます。
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