任文桓の『愛と民族-ある韓国人の提言』(同成社1975年)は,引用者の鄭大均が「植民地世代が残したもっとも劇的ですぐれた自叙伝」と高く評価し,その紹介にもっとも多いページ数を割いている。
以下に,その概略を紹介します。
任文桓は1907年,韓国併合以前の全羅北道錦山に生まれた。自伝では,まず併合初期,日本人と新付日本人(朝鮮人)の教育機会に大きな差があったことが語られる。入学条件の一つに頭を丸刈りにするというのがあり,兄はそれを拒んだために入学できず,一生を後悔したという。教育は無償ではなかったが学費は払わなくてもいくらでも待ってくれたこと,4学年の中に9歳から最高24歳までの雑多な生徒がいたこと,先生は日本人と朝鮮人が半々で二人の朝鮮人を除いて全員が腰に剣をぶらさげていたことなど,あまり知られていない事実が述べられていて興味深い。
教育機会は都会と田舎でも差別があった。田舎の普通学校は4年制,京城のような都会では6年制。田舎出のバウトク(任文桓の幼名)は,京城の高等普通学校(朝鮮人用)に進みたかったが,6年制の普通学校を出た都会の子には勝てず,かといって中学校は日本人専用。田舎には日本人用の尋常小学校(6年制)の上に付設高等小学校があったが,これも日本人専用で,がら空きなのに入れてくれない。バウトクはしかたなく簡易農業学校に進んだ。入ってみるとほとんど学校とはいえない。2年間に,教科書一巻,ノート一冊,鉛筆一本手にしたことがなく,教室もない。あるのは100坪の養蚕室と便所のみ。バウトクはひたすら養蚕の実習をさせられた。
勉学への情熱を絶ちきれないバウトクは,1923年,故郷の友人と二人で日本に渡る。
次は,釜山から下関を経由して京都行きの列車の中の体験である。
「もとより予想していたことではあるが,こんなに多くの支配民族に取り囲まれてみると,おのずから二人の少年の心は不安になるのであった。二人は,仲間は二人だけだということを切々と意識しながら,おしのごとく黙って,ひたすらに恐縮していた。新付日本人(朝鮮人)の言葉で話し合っても,または下手な日本語で話し合うにしても周囲の支配民族から「鮮人奴(め)が」と,どなられるに決まっていると信じたからである。
いくら恐縮していても,お腹が空くのには勝てない。二人の少年は仕方なしに,開けてあった窓からプラットホームを売り歩いている駅弁を買い入れた。(略)
ふたを取った木箱の中には,白いお米の御飯が一杯詰めてあり,隅のほうにおかずが上品に盛られてあった。これくらいなら,いくら初めて見る日本の駅弁でも,十分に理解がいくところが,御飯の真ん中あたりに,杏(あんず)に似た果物が一個詰め込まれており,形は杏より少々小さく,色は杏の黄色に反し,鮮やかな朱紅である。一目見ただけで,ほれぼれするほど美味しそうだ。
バウトクはいきなり,これを口の中に入れて,杏を食べた時と同じ要領で,奥歯でやんわりと噛んだ。まさにその瞬間,かつて味わったことのない酸味がバウトクの全身に突っ走り,体全体が激しく震えだした。極端に驚き慌てた彼は,走っている汽車の窓から外に向かってこれを吐き捨て,引き続き口の中の唾液が悉く乾くまで,つばを吐き続けた。(略)
向こう側に座っていた支配民族のねんかみさん(老年の男性に対する尊称)とおかみさんが,バウトクのこの慌て振りを見て笑い出した。それからバウトクが窓から首を引っ込めるのを待って,「どこからどこへ行くのか」と問うた。それをきっかけに,バウトクを驚かした梅干しの説明から,彼の故郷の山河へと,話がはずんで行った。たどたどしい日本語でも,とにかく東京の標準語を勉強したのだから,相手に十分通じるようであった。
そのうちに,バウトクは意外な事実に感動し始めるのである。被統治民族である彼は,己に対する軽蔑については,それがいかに微細なものであっても,余すところなくそれを感得できる動物的本能を身につけていた。物心ついて以来,受け続けて来た日本人による差別扱いが,彼の動物的本能を肥培成熟させたのである。それゆえに,対等の人間として無理を強いられることは何とも思わないのだが,支配民族の軽蔑のこもった視線に出会うと,たとえそれが微かであっても激して,必ず仕返しを誓う彼になっていた。死ぬ前に,いつかは復讐して見せる,と物言えぬ心に誓うのが,新付日本人達の精一杯の反抗であったのだ。(略)
ところが,三等席の向かい側に座っているねんかみさんとおかみさんの体からは,軽蔑らしい陰翳すら見られない。バウトクが梅干しの失敗を演じたときも,二人の日本人は目から涙がこぼれるほど笑いはしたけれども,本当に可笑しいので,腹をかかえて笑いころげている人間の純真さが,バウトク自身をすらその笑いの中に引き込むほど,貴いものであった。日本人に接したかぎりにおいて,過去には体験を絶した明朗なものである。(略)
時がたつにつれて,車内にいる乗客へ全体が,向かい側に座っている二人の日本人と同じ人間であることがはっきりして来た。彼が小用のため通路を歩いて行っても,鮮人のくせに,生意気な,という眼光を投げかける人間など一人もいない。同じ日本人でありながら,錦山の町に流れついた日本人とは,まるで人種が違うかと思えるほどであった。(略)
この車内で発見した驚くべき世界は,バウトクのその後においても,ほぼ真実であった。と言うのも,この後も彼が日本にいるかぎり,たまに体制の仕打ちにより鮮人であることを思い知らされる以外に,日本人個人によって刺戟されることは絶えて稀であった。しかし,ひとたび郷里に帰ると,自然を除いたあらゆるものが,鮮人意識を燃え上がらせる燃料となった。その中でも,執拗な追打ちをかけるのが,警察と称する体制と,長いこと朝鮮に住みついた日本人ならびにその子孫どもであった」
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