1月16日、小野田さんの訃報に接しました。
小野田さんは、元日本帝国陸軍軍人。
フィリピンで終戦を迎えるも、終戦の事実を知らずにゲリラ戦を継続し、終戦29年後の1974年にルバング島から日本に帰還を果たしました。
当時、私は中学生。その二年前にグアム島から帰還した横井庄一さんに比べ、カッコいいなあ、と思ったことを覚えています。
横井さんのときは、よくぞ生きて帰った、よかった、よかったと、歓迎一色でしたが、小野田さんの場合、スパイ養成機関である陸軍中野学校の出身だったこともあり、小野田さんを軍国主義の象徴のように言って、批判する論調もあった。野坂昭如氏もその急先鋒だったように記憶します。
そんな風潮に嫌気がさしたのか、小野田さんはその後、親戚を頼ってブラジルに移住。いつしか日本のマスコミからも忘れられていきます。
私が久しぶりに小野田さんを思い出したのは、このブログに慰安婦関連の記事を書いた際、ブログ読者の一人から、小野田さんの執筆した記事をリンクしてもらったとき。
今探してみたら、ありました。(→リンク)
題して「私が見た従軍慰安婦の正体」
小野田さんが、旧制中学卒業後、商社員として漢口で、その後軍人として南昌で見聞きした、慰安所と慰安婦の様子が描かれています。
小野田さんはここで、戦後作られた「従軍慰安婦」という言葉を否定し、「性奴隷」などという実態はなかったと断言、『「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである』と結論づけています。
生き証人が、実体験と、「兵站」資料などに当たって書かれた記事だけに、説得力があります。
まあ、これなども韓国では「軍国主義の亡霊の戯言」として片づけられてしまうのでしょう。
小野田さんが、ルバング島から帰国したとき52歳。今の私の歳と同じです。
23歳から29年間を密林で過ごしていたのにも関わらず、日本語を忘れなかったのは、帰還の2年前まで、戦友の小塚金七と行動をともにしていたからでしょう。
英語が堪能で、商社マンとして中国にいたときに中国語もマスターしたというから、語学の才能にも恵まれていたのでしょう。
享年91歳。ご冥福をお祈りします。
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敵弾の洗礼を受けるような場所でね。
貴重な証言ですね。
戦犯裁判についての資料を丁寧に見ていきますと、「慰安婦」を強制することは戦争犯罪であるということは、第2次大戦中から戦後にかけて、その当時においても多くの連合国によって認識されています。もちろん、現在のような女性の人権という認識に比べて非常に弱いですし、当時の、例えば裁判官にしても検察側にしても捜査をしていた人物にしても、全部、男性です。政策を決定できるようなところに女性はまったくいません。ですから、女性の人権という認識がきわめて乏しかった時代です。しかし、そういう段階にあっても、あまりにもこれはひどすぎる、これは戦争犯罪だという認識が当時から、少なくとも多くの連合国の間にはあったんですね。まったくなかったのは日本の支配者たちです。しかも戦争中にとどまらず、これがまったく犯罪ではないという認識が、先ほどの靖国への合祀のように1967年の段階においても継続しています。婦女子売淫刑という資料が残っていてそういう犯罪者であると認識しながら靖国神社に合祀している。これは日本の恥さらしとしか言いようがないと思います。
http://www.sahyob.com/jp/booklet/10/10-2.htm
調べれば調べるほど、犬鍋さんの考えには疑問がわきます。
時間のあるときに読んでみます。
「慰安婦」を強制することは戦争犯罪である、という認識が日本の支配者たちにまったくなかった、というのは本当でしょうか。
「軍担当者と慰安所の業者は慰安婦の募集を企図,抑留所を管理していた第16軍軍政監部は,強制しないこと,自由意思で応募したことを証する本人のサイン付き同意書を取るように指示していたが,違反する出先部隊があり,…」
http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/9229af38c8912395e7c5930cc5914413
様々な角度から検証され、最後に生き残った説が多分正しいのだろうとは思いますが、如何せん現況頭に血の上った連中の言説に惑わされかねない状況からは、距離を置きたいものです。
また、私が見るに、欧米諸国にも一定の共感があるなかで、日本がこの状況をひっくり返すのは至難でしょう。
性急な解決を急ぐばかりに感情的な対処は逆効果だと思いますけどねえ。
一つ一つ事実を積み重ねながら、誠実に対処した方が良いのにと、思わないでもありません。
(スマラン事件の)裁判であきらかになった重要な事実のひとつは、日本軍司令部が、売春のための強制徴集は戦争犯罪であるという国際法をよく承知していたということである。それは設置する際の注意、また事件が発覚すると軍慰安所を閉鎖したことから、よくうかがわれる。
と書いています。リンク先の林博史という人の見解は、とても珍しいと思います。
アホかさんが疑問に思っている「私の考え」が何をさしているのか、よくわかりませんが、私は「慰安婦問題は学問的には前世紀に決着がついている」と考えています。
http://tarari1036.hatenablog.com/entry/2013/06/17/215551
こういうこと?
資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-28/2011102814_02_1.html
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20130703/p1
1999年刊、秦郁彦「慰安婦と戦場の性」の説に対する学問的な反証は、いまだに出ていないと思います。
「直接対決」のブロガー氏は、読解力に問題があると感じます。
さらに同書では、「「慰安婦」または「従軍慰安婦」のシステムは、戦前期の日本に定着していた公娼制の戦地版として位置づけるのが適切かと思われる。(前書p.27)」と述べていた。
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20130703/p1
秦郁彦さんも、慰安婦は性奴隷と認めていたわけだが(笑)
単なる意地っ張りにしか見えませんな。