11月22日、金泳三韓国元大統領が亡くなりました。謹んで冥福をお祈りいたします。
私が仕事で本格的に韓国と関わり始めたのは、1990年。
ただ、その前の職場にも韓国人がいて、ときどき韓国の話を聞いてはいました。彼女のお父さんは大邱で新聞社を経営していましたが、全斗煥時代に強制的にマスコミが統合され、廃業に追い込まれたので、全斗煥(と軍事政権)に対し、敵意をもっていた。
1987年、韓国に民主化の機運が高まり、軍人出身ではなく、文民政権が登場するのは確実と言われたときに、金泳三と金大中がともに譲らず、野党の候補を一本化できなかったため、軍人出身の盧泰愚に「漁夫の利」で大統領の座をもっていかれてしまいました。
そのとき、同僚だった韓国人女性は、しきりに残念がっていました。
転職後、次の大統領選挙では、やはり金泳三と金大中が、どちらもどうしても大統領になりたがった。そして、なんと金泳三は、民主化闘士だったにもかかわらず軍人出身の盧泰愚と手を組んで金大中を追い落とし、めでたく大統領に当選。
新しい職場で、私は韓国人の留学生を何人もやとって仕事をしていましたが、その中に政治家志望の留学生がいたことは、前に書いたことがあります(→リンク1、2、3)。
その彼が、私の駐在後、金泳三大統領の秘書官になったという事情があったため、歴代大統領の中でも金泳三は、ひときわ思い出深い大統領です。
なにしろ初めての「文民大統領」ということで、最初は支持率も高かった。それを背景に、軍事独裁時代の追及に熱心で、新しく作った法律で過去を裁くという無茶なやり方を使って、全斗煥や、自分が大統領になるのを助けてくれた盧泰愚まで逮捕し、国民の喝采を浴びました。
また軍人政権時代に蓄財していた特権階級を一網打尽にするために、夜中の12時に特別演説を行い「金融実名制」(他人名義、架空名義の口座の無効)を導入するなんていうのも、大したパフォーマンスでした。
地震でもないのに橋が落ちたりデパートが崩れたりしたのも彼の時代だったと記憶しています。
民主化だけのために闘争してきた人ですから、国家や経済を運営する技量が劣るのはやむをえないんでしょうか、政権末期には国家財政を破綻させ、「IMF危機」という経済混乱を招きました。
ウォンの価値が暴落し、円建てやドル建てで給料をもらっていた日本人駐在員は、突然給料が2倍になってウハウハでしたが、私は残念ながらウォン建てだったので、その恩恵にはあずかれませんでした。
あと、思い出に残っているのは、朝鮮総督府の建物(国立博物館)を「歴史の立て直し」だとかいってとりこわしちゃったこと。立派な建物だったのに残念です。
末期には、次男の不正が明らかになって追及が厳しくなると、国民の目を日本に向けようとしたのか、日本の歴史問題について過激な発言が目立ちましたね。慰安婦に関しては、アジア女性基金からのお金を拒否し、韓国独自の支援事業を行いました。
金大中には、終生敵愾心をもっていたようで、自分が金日成と会談しようとしていたのが金日成の死去で果たせず、金大中が金正日と会談してノーベル平和賞をもらったのを妬み、「ノーベル賞の価値が地に落ちた」とコメントして異彩を放っていました。
今、タクシーに乗って、運転手さんなんかに話を聞くと、歴代大統領の中での評価は最低水準です。
大統領などにならず、民主化闘士としてその政治生命を終えていればよかったのかもしれませんが。
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この際、日本の銀行はIMF援助が決まるまでウォン売りを控えていたようですが、金泳三元大統領には日本の銀行に裏切られたというような表現をされたと思います。
IMFの韓国援助以降、急速にグローバル化が進展し韓国経済は急速に復興する一方、社会的な格差拡大もエスカレートしたと伝えられます。
犬鍋さんは駐在期間ということで、現場で生に感じられたことも多かろうと思います。
世界的にも東西の壁崩壊という大きな節目があったわけで、韓国の大転換期の大統領であったということでしょうか。
もう少し、左派からは評価されても良さそうなものですが、やはり経済運営の失敗が響いたんでしょうね。
まあ、尖閣問題の元凶は石原元都知事ですけど。
私の友人夫妻も招待状を受け取り、韓国に住む戦前教育を受けた友人たちと反対署名運動をしましたが、力及ばなかったそうです。
「子供の時から慣れ親しんだあれだけの建物が目の前で崩れ落ちていく姿に胸が潰される思いでした。壊したからと言って、歴史を変えれるわけでもないのに。真の歴史教育をしたいなら残すべき建造物でした。自分の力を国民に誇示したいがためだけの愚かな人間。」と今でも悔しがっています。
死を伝えると「あの馬鹿が死んだのですか。」の一言でした。
IMFのときは、銀行が潰れたり統廃合されたり、起亜自動車が潰れたりと、驚くべきことが次々に起こり、この国はどうなっちゃうんだろうと思いました。
竹島問題がクローズアップされたのもこの時代でしたね。カラオケでは、よく「独島はわが領土」という歌が歌われたりしていました。
駐在員ビザを複数年申請しても、竹島問題を理由に1年しか発給されなかったと記憶します。
旧総督府庁舎は、戦後長らく政府庁舎としても使われていたので、新生大韓民国の象徴でもあったんですけどね。かえすがえすも残念なことです。