「鬼郷(クィヒャン)っていう映画が人気らしいね」
出張中、職場の韓国人女性に聞きました。
「えっ? 犬鍋さん、ご存じですか? 人気ってほどでもないですけど」
「なんか、動員数の記録を作ったみたいな報道があったけど」
「いえ、むしろあまり観客がいないんで、もっと見るべきだってキャンペーンしてるくらいです」
鬼郷とは、戦争中の慰安婦を扱った映画で、元慰安婦(姜日出)の証言を基にした「実話」と喧伝されています。戦争末期に日本の軍人に焼き殺されそうになったが、危機一髪で解放軍に救出されるといった、荒唐無稽な物語。証言に基づくというよりも、元慰安婦が描いた絵に触発されて作られた、というほうが事実に近いようです。
清純な少女が路上で日本軍に強制連行され、性奴隷にされて、最後は殺される、という韓国で定着している慰安婦イメージを誇張して表現した作品なんでしょう。
帰りのアシアナ空港の機内で読んだ京郷新聞に、こんな記事がありました。
京郷新聞 3月2日 [キム・イジェの地理的想像力](→リンク)
アンネの日記と慰安婦少女の「鬼郷(=帰郷)」
キム・イジェ 文化地理学者・京仁教育大教授
アンネ・フランクは1929年、フランクフルトでドイツ系ユダヤ人家庭の次女として生まれた。彼女が4歳になった1933年、ヒトラー政権のユダヤ人迫害が激しくなると、アンネの家族はただちにオランダに引越しした。好奇心が強く活発な少女アンネは、その町の友達と飛び回り、幸せな幼少期を送ったが、1942年から26か月間、ほかのユダヤ人家族とともに、プリンセン運河263番地の狭い部屋に隠れて過ごさなければならなかった。当時、ドイツ軍に占領されていたオランダに住む約12万人のユダヤ人は、全財産を没収され、死の収容所に送られる運命だったからだ。
不安な状況の中で、彼女の13回目の誕生日に父親がプレゼントしてくれたチェックの柄の小さい日記帳は、苦しい隠れ家生活を耐えさせてくれる良き友であり、想像力豊かなアンネは、日記を書くことで前向きな希望のエネルギーを充電した。しかし、1944年8月、隠れ家が発覚するやいなや、アンネとその家族はアウシュビッツ・ユダヤ人収容所に送られ、アンネは1945年3月、収容所で病気のため短い生涯を閉じた。思春期の少女の夢と感性に満ちた日記は、奇跡的に生き残った父親によって、1947年に出版され、世界65か国の言語に翻訳されて、世界的ベストセラーになった。アンネ・フランクは、自由、正義、人権の象徴になり、世界14か国の215の学校が、アンネの名前を使い、日本にはアンネを讃える教会があるほどだ。
アンネの家族が隠れ住んだアムステルダムの家は、今も毎年数十万人が訪れる観光名所になっており、建物の前には少女アンネの銅像が建てられている。
アンネだけでなく、当時のユダヤ人が体験した苦痛とホロコーストの歴史は、「シンドラーのリスト」、「人生は美しい」、「ウーマン・イン・ゴールド」など、数多くの映画と文学作品がよく取り上げるテーマとなり、今も多様なジャンルの芸術作品、教材として再生産されている。ナチの戦犯の罪を問う国際裁判は現在進行形であり、被害の事実と歴史的真実が学者の研究によって新たに明らかになると、ヨーロッパ各国の教科書、教育現場に積極的に反映される。ポーランド、オーストリアなどヨーロッパ各国に実在したユダヤ人強制収用所は、戦争が終わった後もそのまま保存され、戦争の残酷さを想像し体験できる空間、反戦平和運動の生きた教材として活用されている。特にポーランドのマイダネクにあるナチ強制収用所には、ユダヤ人の子どもたちが死の恐怖の中で爪と石で刻んだ希望の蝶が壁面を覆い、ホスピス運動の先駆者であるエリザベス・キューブラーをはじめ、この地を訪問する多くの人々の魂を揺さぶっている。
第二次世界大戦のさなか、ほぼ同じ時期に、韓国の多くの少女が、わけも分からないまま日本、中国、東南アジアなどの地に設置された日本軍慰安所に引き立てられていき、ユダヤ人の少女に劣らなぬ苦痛と恐怖に耐えなければならなかった。幼い年齢で両親と離れ、見知らぬ国で残酷な暴行を受け、みじめな生活をした「慰安婦」少女は、現地で死を迎える場合が多く、戦後、運良く故郷に戻った女性たちも、傷と羞恥心に苦しみ、ひっそりと涙を流さなければならなかった。1991年、故金学順ハルモニをはじめとして、「慰安婦」少女からおばあさんになった被害者の勇気ある告白と証言が続き、慰安所で繰り広げられた衝撃的でおぞましい事実が、世の中に少しずつ知られるようになった。
見知らぬ異国で日本帝国主義によって踏みにじられた「慰安婦」被害者の恨みと涙が、70年以上の歳月を越えて、「帰郷」という映画となって帰ってきた。7万5千人を越える後援者、俳優、スタッフのボランティア、14年間のチョ・ジョンネ監督の献身と切実な祈りによって作られた国民映画が与える感動と衝撃は、アンネ・フランクの日記に劣らない。無力な国に生まれた罪により、見知らぬ土地でおぞましい体験をした少女の痛みに共感し、抱きしめようとする観客の暖かい心と涙が、興行の奇跡を作りつつある。
たとえ2016年度の韓国小学校社会科教科書から「慰安婦」に関す連内容が消えるとしても、映画「鬼郷」のバタフライ効果が、韓国、日本、アジアだけでなく全世界に広がるよう支援すること、辛い歴史を直視し、平和で正しい世の中をともに作っていくことは、いまや私たちの役割として残っている。
ヨーロッパでは、ユダヤ人が苦しんだ「収容所」が、真実を知らせる歴史の現場、教育の場として活用されているが、アジアの「慰安所」は忘れられている。第二次世界大戦当時、中国、台湾、海南島などの東アジアだけでなく、ベトナム、タイ、ミャンマー、シンガポール、マレーシア、インドネシアのジャワ・スマトラ島などの東南アジア地域にも日本軍慰安所があったが、アジアでは、中国だけが、上海、南京などの慰安所を保存・復元して博物館にしただけだ。「慰安婦」被害者の苦痛と犠牲を記憶し、追慕するための空間は、市民の寄付でやっと作られたわずかな博物館、歴史館しかなく、毎週水曜日のデモが開かれるソウルの日本大使館前にある平和の少女像は撤去の危機にさらされている。
韓国人は自分たちをユダヤ人に、日本人をナチスになぞらえるのが好きですが、全然違うんですけどね。ナチスはユダヤ人を物理的に抹殺しようとしましたが、日本人は韓国人を同化しようとした。先の大戦では、ともに米英を相手に戦った同志なのですが、今の教育では、あたかも韓国が日本を敵として戦ったかのように教えられている。
元慰安婦をアンネ・フランクにたとえるというのも荒唐無稽です。
慰安婦は10代前半の少女、監禁され、無報酬で性暴力を受けた末、最後は殺された、という誤ったイメージは、日本大使館前の少女像をはじめ、ドラマ、映画、アニメなどで誇張して再生産され、教育の場で教え込まれ、若い世代に「反日感情」を植え付けています。
嘆かわしいことです。
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朝鮮人って日本時代、日本国臣民としての恩恵を120%受け、日本人ならあった義務を大戦末期まで色々免除され、ある意味日本人以上に恵まれてたわけです。
日本と合併するまでは多くの朝鮮人は毎日誰かが路上で餓死してるような貧民で両班から家畜のような扱いを受けていた。
それを解放し教育し人としての生き方を与えたのが日本でありそれを指示した天皇陛下だったわけですが…。
朝鮮と違って日本には戸籍があり空襲が無かった韓国には焼かれたりせず戸籍一式が残ってたはずです。
一体誰が強制連行され未帰還となったのでしょうか。
20万人もの少女が朝鮮半島から消えたなら、必ず人口分布に穴が空くはずです。
しかし、フランスの人がそれを調べたら、あまりに綺麗な人口分布で、戦没で人口分布がガタガタになった日本人と比較することも出来ない。
イコールそんな事実は物理的にあり得ないという事を結論づけてました。
嘘に嘘を塗り固めて、彼らは何をしたいんでしょうね。
日本と完全に決裂してまた中国の一部になるのが望みなのでしょうか。
真剣に、韓国人は自滅願望が酷すぎるとしか思えませんね。
朝鮮に早婚の慣習があり、妊娠可能年齢から限界まで出産を続け、若くして死んでいくのが常だった、というようなことが書いてありました。
早婚を禁止したのも、植民地時代だったはずです。
http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/b5e2edc433757d84f99db92694348fdc
韓国の人は日本時代、日帝時代、植民地時代、日帝強占時代と当時を生きた人が減るにつれ、現実からかけ離れた呼び方をするようになってきてるんですが、合併当時、朝鮮や日本の新聞では「合邦」と書かれていたそうです。
つまり、対等合併です。
朝鮮の王族は特別に遇され、朝鮮の人は皆等しく日本帝国の臣民となり、苦しい身分制度から解放されました。
当時は、日本でも朝鮮半島でも本当にお祭り騒ぎで皆が喜んだそうです。
つまり、朝鮮半島は植民地ではなく日本の一部だったんですね。
最近、まずこの呼び方から少なくとも日本人だけでも直すべきじゃ無いかと感じるんですね。
合邦と植民地化ではあまりにも異なりますから…。