円谷選手についての私のイメージ,すなわち
「全国民の期待を一身に背負って臨んだ東京オリンピック。国立競技場のトラックに2位で入場しながら,全国民の見守るなかでヒートリーに抜かれ,銅メダルに終わった。実際に円谷は,もう限界だと感じていたが,マスコミのインタビューで「次のオリンピックで頑張ります」という言葉を半ば強要され,それが重圧となって,メキシコオリンピックを目前に控えた時期に自殺した…」
がどこから来たのかと思ってネットを検索していると,こんなページを見つけました。(→リンク)
「亡くなる半年前の競技会で、円谷さんと走りました。『(東京五輪で)ぼくは国立競技場で、国民の面前で追い抜かれて本当に申し訳なく思う。そのおわびをするために、もう一度メキシコで日の丸を揚げるのが国民との約束なんです。』彼がそう言ったのをはっきり覚えています。」(君原健二選手の証言)
おそらくはこの証言をもとにしたテレビのドキュメンタリー番組あたりが,私のイメージの元になっていたのでしょう。
ところで,北京オリンピックの男子マラソンはケニヤのワンジル選手が勝ちましたね。
アベベ以来,アフリカ勢の活躍が目立ちますが,80年代にはイカンガーという名選手がいました。瀬古選手や宗兄弟と名勝負を繰り広げたタンザニアのランナーです。
当時はとても憎らしく思っていたものですが,ネットで見つけたインタビュー記事(→リンク①,②,③)を読んで,とても魅力的な人柄だなあと思いました。
「自分でもはっきりした年齢がわからないのです。誕生日を親が覚えていないものですから。」
などと正直に言ってしまうのがすごい(ウィキペディアにある生年月日は架空のものでしょう)。
「私は、最初は先頭集団に合わせて走るという作戦は立てたことがありません。私はとにかく人の後ろを走るのは嫌いなのです。だから、私は常に、自分が一番前で走ることを意識していました。」
という証言は,当時のレース振りそのままです。
「私にとって現役で走るということは、1位を狙うことであり、そうでなければ私にはマラソンに参加する意義がないのです。そして私自身がそれ(1位を目指す力がなくなったこと)を自覚した時、引退を決めました。</BASEFONT>」
北京五輪の男子マラソンでは,宗兄弟のお兄さん(茂)が解説をしていました。首を傾けて苦しげに走る独特のフォームが今も目に浮かびます。
最後に,当時流行っていたなぞなぞを紹介。
〈問題〉
ある玩具メーカーが,瀬古人形と宗兄弟人形を売り出した。
ところがどこのおもちゃ屋さんに買いに行っても,瀬古人形だけしかなく、宗人形は決して目にすることがなかった。
なぜでしょう?
〈答え〉
宗は問屋がおろさなかったから。
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