英語を日本語に訳すことを、英文和訳と言ったり、英文解釈といったりしますね。
最近は、和訳とか解釈とかいうと古くさいとか、昔の勉強方法だと言われます。原語のまま理解しないといけないなどと。
でも、和訳のことを解釈といったのは言い得て妙だと思います。日本語にきちんと訳せることは、原文をちゃんと理解したことの証拠です。逆に、きちんと訳せないなら、結局のところよくわかっていないんじゃないか、と言いたくなる。
ときどき、翻訳物で何がいいたいんだかよくわからないといった文にお目にかかることがあります。原文がおかしい可能性もあるけれど、訳者がきちんとわかっていないことのほうが多いでしょう。
講義のノートも同じことが言えるようです。話を聞いていて、きちんと理解できないと、ノートはとれない。そして、ノートに書き留めた文章は、その人なりの理解、解釈を表わしています。
ソシュールの「一般言語学講義」を、普通の日本人が読む場合、実際の講義から気の遠くなるようなプロセスを経て、われわれの手元に日本語の訳文が届きます。
ソシュールが講義する、それを講義出席者がノートにとる、そのノートを研究者が筆耕して活字にする、そのフランス語を日本人が訳す…。
それぞれの段階で解釈が入ってくるのは避けようがない。
著者が推敲を重ねて世に出した本の翻訳なら、最初に書いたように、うまく訳せないのは訳者の理解度が低いからといえるでしょう。
でも、学生のノートを筆耕したものを訳す場合は、そもそもの訳文が、きちんとしている保証がない。ノートは別に人に見せるためのものじゃないから、断片的だったり、文として整っていなかったりする場合があるからです。
しかし、訳して出版する場合は、読者がわかるように訳さなければならないから、原文を補足して整った文にすることになる。普通の翻訳に比べて、訳者の解釈の入る余地が増えるわけです。
ソシュール第三回講義には二種類の翻訳があります。東大の先生たちが訳したほうが、読みやすい。けれども、読みやすい分、それだけ訳者の解釈が入っているはずです。元の講義の実像に迫るには、読者のほうがさまざまな想像力を働かせなければならない。そういう意味では、いろいろな人の翻訳が存在するのはありがたいことです。
最近は、和訳とか解釈とかいうと古くさいとか、昔の勉強方法だと言われます。原語のまま理解しないといけないなどと。
でも、和訳のことを解釈といったのは言い得て妙だと思います。日本語にきちんと訳せることは、原文をちゃんと理解したことの証拠です。逆に、きちんと訳せないなら、結局のところよくわかっていないんじゃないか、と言いたくなる。
ときどき、翻訳物で何がいいたいんだかよくわからないといった文にお目にかかることがあります。原文がおかしい可能性もあるけれど、訳者がきちんとわかっていないことのほうが多いでしょう。
講義のノートも同じことが言えるようです。話を聞いていて、きちんと理解できないと、ノートはとれない。そして、ノートに書き留めた文章は、その人なりの理解、解釈を表わしています。
ソシュールの「一般言語学講義」を、普通の日本人が読む場合、実際の講義から気の遠くなるようなプロセスを経て、われわれの手元に日本語の訳文が届きます。
ソシュールが講義する、それを講義出席者がノートにとる、そのノートを研究者が筆耕して活字にする、そのフランス語を日本人が訳す…。
それぞれの段階で解釈が入ってくるのは避けようがない。
著者が推敲を重ねて世に出した本の翻訳なら、最初に書いたように、うまく訳せないのは訳者の理解度が低いからといえるでしょう。
でも、学生のノートを筆耕したものを訳す場合は、そもそもの訳文が、きちんとしている保証がない。ノートは別に人に見せるためのものじゃないから、断片的だったり、文として整っていなかったりする場合があるからです。
しかし、訳して出版する場合は、読者がわかるように訳さなければならないから、原文を補足して整った文にすることになる。普通の翻訳に比べて、訳者の解釈の入る余地が増えるわけです。
ソシュール第三回講義には二種類の翻訳があります。東大の先生たちが訳したほうが、読みやすい。けれども、読みやすい分、それだけ訳者の解釈が入っているはずです。元の講義の実像に迫るには、読者のほうがさまざまな想像力を働かせなければならない。そういう意味では、いろいろな人の翻訳が存在するのはありがたいことです。
日本語で通じるのに英語で話し合うのも煩わしいし、能率が悪い。
ともすれば、英文を見て、それにふさわしい和文を作る勉強になる。
それでは、日本人が英米人の考え方を学ぶことにはならない。
たとえば、日本人の首相が’Trust me.’ (俺に任せろ)と言って、アメリカの大統領が ‘Are you sure?’ (自信はあるのか) と言ったとすると、至極日常的な会話のように聞こえる。
ところが、首相の方には腹案しかなく、大統領の方はまだ聞かせてもらっていない成案に関する可能性について尋ねていると知ったら、この会話はまったく無意味であることになる。
日本語脳では、未来時制に関する内容が不確かなので、腹案は正式な現実対応策として発表されることはない。
だから、我が国の英語教育における英文和訳の練習は、実用の段階の手前でストップしている。
これから先は、時制を使った英語の再教育であり、英米流の高等教育の段階である。
英米流の大人の教育は、やはり英米に留学することが最も効率の良い勉強法であると考えられる。
これは、日本語脳を温存した12歳の語学留学とは違ったものである。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
最近、英米以外の国々の人と独特な英語を聞く機会が増えるにつけ、正統な英語じゃなくともだいたい通じりゃいいんじゃないかと思い始めています。