駐在員には年一回,一時帰国休暇が与えられます。今年も先週,久しぶりに家に帰りました。とはいっても娘たちはそれぞれ部活とか自分の生活で忙しい。犬を散歩に連れていったり,読書をしたり,のんびり過ごしました。
今回,読んだ本の一つが,山本七平『洪思翊中将の処刑』。1986年に文藝春秋より刊行され,絶版になっていたものが,昨年,ちくま文庫から復刊されたものです。
洪思翊(コウ・シヨク/ホン・サイク)は,朝鮮人でありながら,日本の陸軍幼年学校,士官学校,陸軍大学を卒業し,帝国陸軍で中将にまで昇りつめたエリートです。この例をもって,「帝国陸軍に民族差別は存在しなかった」証拠とされたりもします。終戦時,南方総軍兵站監の地位におり,配下の捕虜に対する虐待の罪の責任を問われて,戦犯として処刑。戦犯裁判の間,一言の証言もしなかった。
山本七平は,洪中将がなぜ一言の弁明もせず,絞首台の露と消えたのか,彼は何にたいして忠誠をつくしたのかを追って,この一冊を書き上げました。
この数奇な人生を送った朝鮮人について,まえまえから読みたいと思っていたのですが,やっと読む機会に恵まれました。
次は,冒頭近くに紹介されていた逸話。
洪中将の御子息洪国善氏は,大変興味深い思い出を話された。それは氏の少年時代,洪中将が大尉だったころのことである。当時の日本における韓国人への差別・蔑視はいわば「あたりまえの状態」であり,帝国陸軍の大尉に向って直接こういう態度をとる者はいないとはいえ,家族は例外ではない。従って少年の国善氏にとって「チョーセン,チョーセン」と理由なき蔑視と嘲弄をうける日々はまことに苦しいものであり,ある日ついにたまりかねて
「なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか,これはどうにかならないものか」
と父に訴えた。当時の洪大尉はこれに答えて次のように言ったという。
「これは大変に困った問題,むずかしい問題,また早急に解決できるとは思えぬ問題である。自分はこのことについて大分調べたが,アイルランド人とイギリス人の間に,非常によく似た問題がある。それゆえアイルランド人の行き方がわれわれの参考になるであろう。アイルランド人はイギリスで,どのような扱いをうけても,決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして,どんなときでも必ず「私は朝鮮人の洪国善です」とはっきり言い,決してこの「朝鮮人の」を略してはいけない」
と。
これは,以前ご紹介した『生きることの意味』の中に出てくる,阪井先生を彷彿とさせます。
そして,アイルランドと韓国の対比。
現代韓国の人々は,韓国人を,ナチスの犠牲になったユダヤ人になぞらえるのを好みます。そして,イギリス治下のインド,オランダ治下のインドネシア,フランス治下のアルジェリア・インドシナと比較されることは嫌う。
長らくイギリスの植民地であったアイルランドとの比較など,聞いたこともありません。
私は昔,ひょんなことからアイルランドに興味をもち,さまざまな意味で日帝治下の韓国と類似点が多いことを知り,一時,比較を試みたことがあります。その詳細については,いずれブログでご紹介する機会があるでしょう。
しかし,まさに日本の支配が進行形であった時代に,アイルランドとのアナロジーを自覚していた朝鮮人がいたとは。その炯眼に感服します。
今回,読んだ本の一つが,山本七平『洪思翊中将の処刑』。1986年に文藝春秋より刊行され,絶版になっていたものが,昨年,ちくま文庫から復刊されたものです。
洪思翊(コウ・シヨク/ホン・サイク)は,朝鮮人でありながら,日本の陸軍幼年学校,士官学校,陸軍大学を卒業し,帝国陸軍で中将にまで昇りつめたエリートです。この例をもって,「帝国陸軍に民族差別は存在しなかった」証拠とされたりもします。終戦時,南方総軍兵站監の地位におり,配下の捕虜に対する虐待の罪の責任を問われて,戦犯として処刑。戦犯裁判の間,一言の証言もしなかった。
山本七平は,洪中将がなぜ一言の弁明もせず,絞首台の露と消えたのか,彼は何にたいして忠誠をつくしたのかを追って,この一冊を書き上げました。
この数奇な人生を送った朝鮮人について,まえまえから読みたいと思っていたのですが,やっと読む機会に恵まれました。
次は,冒頭近くに紹介されていた逸話。
洪中将の御子息洪国善氏は,大変興味深い思い出を話された。それは氏の少年時代,洪中将が大尉だったころのことである。当時の日本における韓国人への差別・蔑視はいわば「あたりまえの状態」であり,帝国陸軍の大尉に向って直接こういう態度をとる者はいないとはいえ,家族は例外ではない。従って少年の国善氏にとって「チョーセン,チョーセン」と理由なき蔑視と嘲弄をうける日々はまことに苦しいものであり,ある日ついにたまりかねて
「なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか,これはどうにかならないものか」
と父に訴えた。当時の洪大尉はこれに答えて次のように言ったという。
「これは大変に困った問題,むずかしい問題,また早急に解決できるとは思えぬ問題である。自分はこのことについて大分調べたが,アイルランド人とイギリス人の間に,非常によく似た問題がある。それゆえアイルランド人の行き方がわれわれの参考になるであろう。アイルランド人はイギリスで,どのような扱いをうけても,決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして,どんなときでも必ず「私は朝鮮人の洪国善です」とはっきり言い,決してこの「朝鮮人の」を略してはいけない」
と。
これは,以前ご紹介した『生きることの意味』の中に出てくる,阪井先生を彷彿とさせます。
そして,アイルランドと韓国の対比。
現代韓国の人々は,韓国人を,ナチスの犠牲になったユダヤ人になぞらえるのを好みます。そして,イギリス治下のインド,オランダ治下のインドネシア,フランス治下のアルジェリア・インドシナと比較されることは嫌う。
長らくイギリスの植民地であったアイルランドとの比較など,聞いたこともありません。
私は昔,ひょんなことからアイルランドに興味をもち,さまざまな意味で日帝治下の韓国と類似点が多いことを知り,一時,比較を試みたことがあります。その詳細については,いずれブログでご紹介する機会があるでしょう。
しかし,まさに日本の支配が進行形であった時代に,アイルランドとのアナロジーを自覚していた朝鮮人がいたとは。その炯眼に感服します。
もしかしたら掲示板時代に書いたような気もしますが,はたして残っているかどうか。
近いうちにアップすることをお約束します。
洪思翊の一族はどうなったんだろうと思っていたとき、
このエントリーがあったように思います。
子息洪国善氏は、李承晩時代に韓国銀行からパージされ、
不遇のうちになくなったと、この本の中に書かれていたと記憶します。
また、洪思翊の妻はアメリカに移住し、すでに亡くなっていると聞いています。
それでも、ご親族がおられるはずで、どのような気持ちでおられるのか
、やりきれない気持ちになったものです。
前置きが長くなりました。本題です。
> (アイルランドと韓国の対比の) 詳細については,いずれブログでご紹介する機会があるでしょう。
とのことなので、忘れぬうちにリクエストしておきます。
既に書かれているのでしょうか、見落としているのであればごめんなさい。
裁判ですか。私には経験がないのでどんなに大変なものか想像がつきません。
まだ読む時間がありませんが、週末にじっくり読ませていただきます。
http://lave7171.iza.ne.jp/blog/
*現在、民事裁判(併合訴訟)を行っています。6月7日が次回期日です。まもなく、教育長に対する刑事告訴も終了します。仕事をしながら、本人訴訟でやっています。法廷には、町田市、東京都、被告らの弁護士複数、指定代理人複数、行政関係者が常に来ています。まだ,弁論準備の段階です。弁論までは、まだしばらくかかるかも知れません。尚、裁判長から指定された5月26日の被告複数の私への反論提出期限が来ていますが、一向に提出されていません。どうせ、当日提出でしょう。とにかく驚かれないで下さい。ごく普通の人間です。音楽が好きで、旅行に行くのが・・それが・・裁判で一変しました・・・本当は、ブログなんか、書いている場合ではないのですが・・・(笑い)
ひまわりさんのブログ、よろしければ教えていただけますか。
>{薄学}で、なかなかの勉強家・・「博学」です。大変失礼しました
「人生いろいろの」呉さん゛゜「スカートの中の風」は「スカートの風」 「2チャンネル 徹底的・圧倒的に反日」は、「徹底的・圧倒的に嫌韓・反韓・・」でした。
大変失礼しました。
>「チョーセン,チョーセン」と理由なき蔑視と嘲弄をうける日々はまことに苦しいものであり,ある日ついにたまりかねて・・・」の部分は、心が痛み、日本人も反省すべき点です。やはり根が深いですね。
ところで、昨日、私のブログが大変な事になっていました。通常日々、500~800くらいのアクセスなのに、午後7時半過ぎ、帰宅して、ブログをひらいてびっくり、1400越えていました。その前の日曜日は、1050くらい、最終的には1800を越えましたが。なんだろうと思っていたら、松岡農水大臣が、自死された事が、ネットでも報道されていました。アクセスが集中した理由は、やはりでした。
28日の出勤前、午前6時40分過ぎ松岡大臣に対する私のコメントをブログ上で主張しました。松岡大臣は、午前中は、公務が無く赤坂の議員宿舎に過ごされたようです。・・朝、私のブログを見られた方・あるいは、
web上で見られた方が、大臣の自死を受けて、午後4時過ぎ辺りからアクセスされたものと見ています。
まさか、こんな事が起るなんて・・昨年の10月頃からブログを立ち上げて、一番衝撃を受けました。即座に御冥福をお祈りする旨の発信をしました。松岡大臣が、私のブログを読まれた可能性は0%とは、言いきれない部分もあります。とても、後味の悪い1日でした。