犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

一人称単数

2021-10-14 23:15:40 | 
※ 文法の話ではありません。村上春樹の小説の話です。ネタばれ注意!

 「一人称単数」は、2020年7月に出た村上春樹の短編集の表題作です。この作品は、文芸誌に発表されたものではなく、単行本のための書下ろしとのこと。8作品を収めた単行本の中で、最後に収録されています。

 8つの作品は、すべて一人称で書かれています。ただ、他の作品には「僕」または「ぼく」が使われていますが、この作品だけは「私」になっています。「僕」と「私」は、たくさんある日本語の一人称単数代名詞の代表的なものです。「僕」は男性専用、「私」は男性も女性も使います。この小説の語り手は、いうまでもなく男性です。男性が使う場合、「私」は「僕」より改まった感じが強い(リンク)。もしかすると、他の7作品に比べて、年齢の設定が高いのかもしれません。

 語り手の年齢は明示されていませんが、40代でしょうか。妻がいるけれども、子どもはいないみたい。職業は自由業で、「小説家」かもしれません。

 大まかなストーリーは以下の通り。

 主人公の「私」は、「スーツを着て、ネクタイを締めて、革靴を履くということがまれな人生を選んだ」そうです。

 妻が外出し、一人で家にいたある日、急にスーツを着てみようかという気持ちになりました。

 買ってから二度しか袖を通したことのないブランド物のスーツを取り出し、それに合うシャツとネクタイを選んで、鏡に映します。その着こなしに落ち度はありませんでしたが、なぜかその自分の姿に、「一抹の後ろめたさを含んだ違和感」を感じます。

 その違和感は、「自分の経歴を粉飾して生きている人が感じるであろう罪悪感」、「法律には抵触していないにせよ、倫理的課題を含んだ詐称」、「想像するしかないが、人に隠れて女装をする男たちが感じる心情」かもしれない。

 後で考えると、ここで思いとどまっておけばよかったのに、私は黒い革靴を履いて、春の街に出ます。そして、これまで一度も入ったことのないバーに入ります。

 バーの雰囲気は悪くありませんでしたが、そこには「微妙なずれの意識」がありました。「自分というコンテントが、今ある容れ物にうまく合っていない、あるいはそこにあるべき整合性が、どこかの時点で損なわれてしまったという感覚」です。

 店にあった鏡に映った自分を見ながら、「私はどこかで人生の回路を取り違えてしまったのかもしれない、と思えてきた。見れば見るほどそれは私自身ではなく、見覚えのないよその誰かのように思えてきた」

 私はこれまでの人生でいろいろな選択をしてきた結果として、「今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?」

「私」は、突然、カウンターの隣の席にいた女性から、からまれます。五十歳前後の小柄でほっそりした体つきの女性です。

 女性は私に、「そんなことをして、何か愉しい?」と問いかけます。「そんなこと」とは、「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンタ―に座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること」。そこには、少なからざる悪意あるいは敵対意識が込められていることが感じられました。

 女性はさらに挑発します。

 「そういうのが素敵だと思っているわけ? 都会的で、スマートだとか思っているわけ?」

 そのまま勘定を払って店を出るのが賢明なやり方でしたが、私はなぜかそうしませんでした。そして、女性に向かって「人違いではないか」と指摘します。

 ところが、女性は「私」の友だちの友だちであること、一度会ったことがあること、自分も友だちも今、「私」のことを不愉快に思っていること、その原因は、三年前にどこかの水辺で「私」がひどいことを、おぞましいことをしたからであることを語り、最後に「恥を知りなさい」という激しい非難の言葉を浴びせます。

 忍耐の限界に来た「私」はそこで席を立ちます。

 これは、「どう考えても身に覚えのない不当な糾弾だった」。しかし、私は反論したり、説明を求めたりすることできませんでした。

 「私はたぶん恐れていたのだろう。実際の私ではない私が、三年前に「どこかの水辺」で、ある女性――おそらくは私の知らない誰か――に対してなしたおぞましい行為の内容が明らかになることを。そしてまた、私の中にある私自身のあずかり知らない何かが、彼女によって目に見える場所に引きずり出されるかもしれないことを」

 ひどく嫌な感触のするものが口の中に残っていた。…できれば単純に腹を立てたいと思ったが、不思議なくらい腹は立たなかった。「迷いと困惑の波がそれ以外の感情を一時的にどこかに流し去っていた」

 店の外に出たとき、季節はもう春でなく、そこは見知らぬ通りだった。街路樹の幹には、ぬめぬめとした太い蛇たちが巻きつき蠢いていた。歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。空気は凍りつくように冷え込んでいた。

 そして、「恥を知りなさい」という、女性の別れ際の言葉がこだまします。

 ストーリーは以上です。

 タイトルの「一人称単数」は、今ここに実在する私のことです。今の私は、過去の人生におけるいくつかの大事な分岐点において、自分の意志で、あるいは否応なく、ある選択をした結果として、ここに存在します。しかし、その分岐点において、別の選択をすることもありえたし、もしそうしていた場合、まったく異なる人生になっていたかもしれません。

 この小説の「私」は、現状に不満を持っているようではありません。作家(?)としてある程度成功し、妻がいて、経済的にも余裕がある。ただ、「可能性としては」、自由業ではなく、組織に属する人間として就職を選択したかもしれない。ファッション業界に入り、まったく異なる価値観をもつようになり、仕事の関係で、あるいは個人的に、さまざまな人間関係を結び、3年前にある女性に「おぞましいこと」をしでかして、相手を深く傷つけたかもしれない…。

 店の鏡に映った自分を見て、「私」は自問します。

 でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?

 傍点を付されたこの問いに対し、「私」は明瞭に答えてはいません。この答えによって、いろいろな解釈がありえます。

 素直に読めば、鏡に映った自分は、ありえたかもしれない自分の分身です。「実現態としての私」は良心に恥じることはしていない。しかし、鏡の中の自分、「可能態としての私」はひどいことをしたかもしれない。それに対して「私」は無関係と言い切れるか、責任はまったくないのか。

 人はさまざまな欲望をもちます。それを我慢するかしないかで、犯罪者になる可能性もある。窃盗犯になったり、極端な場合は性犯罪者、殺人者になるかもしれない。(「おぞましいこと」という表現は何か性的な行為を連想させます)

 邪悪な欲望をもっても、実行したかしないかで、法的には雲泥の差があります。実行すれば「犯罪者」、しなければ「良き市民」。しかし、「邪悪な欲望を抱いた」という点では同じです。道義的には紙一重の差ではないのか。実行していないのだから、法的には無罪です。でも道義的には有罪と言えるのではないのか。

 物語の最後の不気味な情景は、「私」の心象風景です。私は、自分の分身の「おぞましい行為」について、道義的な責任から逃れ切れていないことが象徴的に描かれています。

 鏡のこちらの「私」は実像で、鏡の中の「私」は虚像である。しかし、これが逆だったら…と考えると、次のような解釈もありえるかも。

 家の鏡にスーツを着た自分を映したとき、「私」は「人に隠れて女装をする男たちが感じる心情」を想像します。伝統的に、女装趣味の男性は「性倒錯」とみなされてきました。しかし、多様な性自認を尊重する今日の価値観では、女装(あるいは女性の男装)はトランスジェンダーの、自らの性認識に忠実な行動とも考えられます。この場合、普段の自分は自らの性認識を偽っており、女装(男装)しているときこそ、真の自分(実像)といえるかもしれません。

 はたまた、こんな解釈も可能です。

 先に述べたように、「私」は、現状に満足しているように見えます。しかし、世の中には現状に不満を持ち、「本来の自分はこんなものではない」、「あのとき、あんな選択をしなければ、今ごろは……」と、「恨」をもって今の自分を嘆く人のほうが多い。

 実現態は「冴えない私」だが、「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンタ―に座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽って」みたい。「都会的で、スマートな」行動をとってみたい。

 しかし、「恥を知りなさい」という女性の一喝で、「私」は「冴えない現実」を思い知らされる…。

 人生は一つしかなく、複数の人生を同時に生きたり、別の選択をした別の人生を生き直すことはできません。「一人称単数」というタイトルは、その隠喩です。

 日々の生活に追われて生きてきた「僕」が、「私」という一人称単数代名詞がふさわしい年代になり、自分の人生を「はたしてこれでよかったんだろうか」と振り返る。この小説をそんなふうに解釈できるかもしれません。

 この17ページほどの小品を読んで、今年還暦を迎えた「私」(犬鍋)もまた、「ありえたかもしれない自分」をいろいろ思い浮かべるきっかけになりました。

〈参考〉
『多崎つくる』―セクシュアル・マイノリティの物語①

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