あくまで個人的な雑感として。
昨日のニュースではグルジアで戦争状態という見出しが目に入りました。
そして今日、グルジア軍はほぼ全部隊撤退したと言う見出しです。
一方では、これ以上犠牲者が増えない撤退と言う形に安堵しつつ、もう一方では、そんな簡単に撤退できるなら、その前に何故もう少し考えることができなかったのかと言う思いがあります。
もちろん、当事者の事情は複雑なものがあるでしょうが、短絡的な行動がなければ1400人が犠牲になる衝突が避けられたんじゃないかと。
幸い、戦争を回避と言う方向でこれ以上の犠牲がなくなるのでしょうが、既に起こった出来事による憎悪は消えず、次の出来事の種になります。
また、北京でオリンピックが始まっていますが、中国の関係者が「平和の祭典をしているのだから、停戦を」というアピールをしたと聞きます。
http://news.nifty.com/cs/sports/athleticdetail/reuters-JAPAN-331605/1.htm
しかし、いまこの祭典で話題が誤魔化されたように見えますが、かの国でも120万人(数字の真偽はわかりません)が犠牲となったチベット騒乱があります。
これも未解決のまま、オリンピックの見かけの美しさと、平和精神によって、見ないふりになっています。
うがった見方ですが、グルジアに対して「平和の祭典だから」と言っているのは、自分たちの問題にも目をつぶってくれと言っているようにも聞こえます。
そこで、この私はどうだろうと内省してみます。
戦争はしていません。
騒乱も起こしていません。
しかし、命は奪いつづけています。
「生きるためだから」という命を奪う側の理屈でもって、自分の罪を見てみないふり。
昨年に参加した「ワールドワーク」にて「自分に起こっていることは世界で起こる、世界で起こっていることは自分に起こる」という話を聞きました。
これはなにも宗教的なところでされた話ではないのですが、今の世界を自分を並べてみると、その言葉が重くのしかかってきます。
世界を動かしたり、平和のために祈りをささげたりということはできませんが、「遠い世界の事だから」とするのではなく、それを鏡に自己を内省していく…それならできます。
そこから「世間虚仮 唯仏是真」が身に染みてきます。