夏休みの間にお参りした富山でのご法座で、二河白道の譬えを描かれた絵軸を通してご法話をいただいたのですが、そのことと(他の)ネット上で行われているやり取りを通じて思っていることがあります。
まず、この「二河白道の譬え」というのを簡単に書きます。
悟りの道を求める行者が西へ西へ(極楽浄土は西方浄土とも言われます)歩むと行き止まりになります。
行き止まりということはそれ以上進めないのですが、後ろからは猛獣や盗賊などが迫ってきており、そのまま留まることもできません。
その行き止まりに沿って行く方法もあるのかもしれませんが、追いつかれるのは必至。
そんなとき、目の前に細い細い白い道が西へ続いているのがわかります。
しかし、その白い道には燃え盛る火の河(怒り)と渦巻く水の河(ねたみ・そねみ)が襲っており、とても通れたものではありません。
行くも死、留まるも死、戻るも死。
そのとき、自分のいる岸から「どうかその道を歩みなさい」という声(お釈迦さま)が、かなたの岸から「その道を歩んで来い」という声(阿弥陀仏)が響いてきます。
自分の力や思いではとても歩めないその道を、その導きの声に任せて歩みだす…
というお話です。
その召還の言葉は「汝一心正念にして直に来れ」というものです。
他には心を向けず、ただただ念仏・本願の招きつまり「南無阿弥陀仏」に任せ、直ちに飛び込んで来いという声です。
しかし、この白道を歩むしかないというのに、「直ちに」とならず、「一心になれない」自分を何とかしようとしたり、「こんな念仏で良いのか」と称え心を問題にしたりしてしまいます。
あるいは、今までの歩みを問題にして、「あれがだめだった、これが間違っていた」と白道の反対である後ろ側ばかり見てしまう人もいます。
法座に参らせてもらうというのは、とても稀有なことなんです。
そこまでのご縁は、良縁悪縁いろいろあるでしょうが、(自分では認めたくはないけれど)そのすべてに無駄なものはなく、いやな思いをしたことでさえ「そうならざるを得なかった自分の迷い(業)」として、今・ここの私につながっています。
だからこそ、振り返るのではなく、ここに座らせていただいているところから「召還の心」に向き合って、「そんな私がお目当てだった」と聞かせてもらうしかないのですが…。
せっかくここまでのお育てを受け、導きを受け、白道の手前まで歩ませてもらったんです。
迫りくる群賊・悪獣を相手にするのでもなく、火の河や水の河を治めようとするのでもなく、仰せのままに一歩踏み出すだけです。
カウンセリング的には、今までの苦しみや恨みつらみが大きいほど、それをじっくり聞いて一度荷物を降ろしてもらうことも大事だとは思います。
しかし、今の私はそれよりも「これだけ大きな願い」ということを知ってほしい気がします。
「直ちに」という声に応えさせてもらいましょう。
「汝一心正念にして直に来れ」
南無阿弥陀仏