コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

生きるということ

2008-08-24 00:51:00 | 真宗

昨日のブログで「自殺」について少し触れましたが、もう少しそこのところを書いてみようと思います。

「生きていても辛いから、死んだ方がまし」
という理由が多いのかどうかわかりませんが、毎日ニュースから「自殺」という文字が目に飛び込んできます。
「自分のいのちだから、自分でどうしようと勝手だ」という言葉を聴いたこともあります。
「なぜ自殺がいけないのか分からない」と。

私がなぜ自殺を反対するのか。
そこには明確な理由があります。
ただ、それは道徳的なものではなく、宗教心につながるものですから「私は宗教は信じない」という方には説得力がないかもしれません。
でも、説得力のあるなしではなく、私の信ずる明確な理由ということで、受け取り方は皆様にお任せすることにしましょう。

まず、このいのちが「自分ひとりのものではない」という考え方です。
この生を与えてくれた親の恩はもちろんのこと、今ここにこうして生きているまでに多くの命を奪ってきました。
食事という行為で奪ってきた命は数えようもなく、それを血肉としてこの身体は作られています。
それらのいのちは、「今・ここ」で私が生きているために「いただいた」ものです。
「じゃあ、これ以上命を奪うことをやめるために生きるのをやめる」という思考にいたるのも分かるのですが、私はそれも認めません。
その理由が次のものです。

「この世に生まれてきた意味」ということを考えます。
”人生の目的”という言葉でもいいのですが、この言葉によって誤解が生じてるケースがあるのでちょっと注意が必要なんですが。

この”私”という存在は、苦しみの世界を迷い続けています。
仏教では六道をめぐる(輪廻)といって、「死んだら終わり」ではなく、死んだ後もこの「私」という魂はさまざまな世界を生き死に生き死に繰り返していきます。
その迷いの輪から抜け出し、浄土へ生まれることを”悟り”といい、苦しみを抜け出し楽を与えられる(抜苦与楽)が究極の目的です。
その悟りを得る道のひとつが「信心とお念仏」によって、阿弥陀仏の救いの誓いに任せる道なんですね。
そのためには「お前を救うぞ」という阿弥陀仏の誓いを聞かせていただくのですが、その声が人間以外の迷いの世界では聞くことができないというのです。

その人間の世界に生まれることですら、自分の力では無理で、阿弥陀仏の善行によってそのような身に”していただいた”というのです。
その人間という身を一度手放すと、いつまたこのような身になれるかわかりません。
広い砂漠に落ちている一粒の砂金を見つけるより困難なことでしょう(私の味わいなので、経典などの根拠はありません)

つまり、人間の生をも「いただいている」ということです。

「生きていても辛いから、死んだ方がまし」に対しては、このまま死んでしまうとこの迷いの連鎖からは離れることができず、結局苦しみが続いていくんだと。
「自分のいのちだから、自分でどうしようと勝手だ」に対しては、自分のいのちと思うのは自分中心の考え方で、肉体的にも宗教的にも「いただきもの」ということを抜きにはできません。

だから、いつか死ぬ身であるとはいえ、自分でいのちを終わらすという行為は悲しいことです。
それでも「死ぬほど辛い」ということを無理に隠したり、無理にがんばったりすることはありません。
辛いことは辛いこととして、もう一方でいのちの意味を考えてみてほしいと思います。