コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

他人事ではない…の本当の意味

2008-08-28 00:01:02 | 真宗

ちょっと硬い話題になります。

今日、ネットでニュースを見ていたらこういう記事がありました。

<韓国>「現政権が仏教を差別」 僧侶ら6万人が抗議デモ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080827-00000092-mai-kr

というものです。
かいつまんで言うと、大統領がキリスト教信者で、政権関係者も仏教を差別する発言をしているので、抗議行動をしていると言うものですね。

で、ふと思ったんですが、他人にどういわれようと、「私の信心」というところに帰っていくのが本来の仏教であり、親鸞聖人の説かれたことだと思うんですね。
「自分の信じているものだけが正しい」というのは、”私”というところにおいては大事なことかもしれません。
しかし、それを他人に当てはめることは暴挙ですし、他を否定することもおかしいですよね。

これって、そんなにむずかしいんでしょうかね。
まぁ、宗教心から始まる紛争もあるわけですし、中国でも武力行為になったり、今回の韓国のデモも、「事はそう簡単じゃない」から起こったんでしょうね。
かつてはこの国でも、僧兵なんて方々がいたわけですから、「自分の信じるものを護る」という気持ちが、他への攻撃を容認しちゃうんでしょうね。

本当に、他人にでも勧めたくなる「私の信心」があるならば、「お前は間違っている」ではなくて「ほらほら、私はこれだけ喜ばせてもらっているよ」って言う姿を見せていれば、相手のほうから気にしてくると思いますけどね。
それが”ご縁”ってもので、「私がご縁をつけてあげよう」なんてものはおこがましいんじゃないですかね。

まぁ、そういう私も子どもらには「ゆるやかな強制」でもって、華光の法座に参らせてますよね。
でも、最後の一線は「当人の問題」
できることは、この私の喜んでいる姿をみせるだけなんですが…家族となると普段の姿も見られてますから、これがまた逆縁になったりもしますね。
ただ、それが逆縁かどうかも実はわからないところで、どこかで繋がる種になっているかもしれない。

つくづく、他人のことはどうしようもなく、問題は「今・ここ・わたし」ですね。
家族や知人が、自分の信じるものをわかってくれなくても、そのことを通してまた「そんな難中の難に会わせてもらった」と喜べるんですけどね。

ある意味、私の「喜怒哀楽、こころのありよう」などなにも影響しない、シンプルで厳しい教えでは有りますね。