コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

剥がされて、剥がされて

2008-10-21 03:17:56 | 真宗

日曜日は華光日曜礼拝。
法話は禅宗僧侶という側面ももつS先生。
「さびしい」をテーマにお話いただいたご法話は、私にとっては余計な思いもあってじっくり聞けなかった。
というのは、法話として聞くより、S先生の思いをじっくり聞きたいなと思わされていたから。
ミニカンやエンカウンターでこの話を聞いてみたいなという…
まぁ、これは私のほうの問題。

子どもらは子どもらで分かれて分級へ、大人も座談会へ。
今回は、このあと大学の落語研究会が子どもらに落語を披露してくれると言うので、大人の座談会も時間を区切って観にいこうということに。
で、参加者の自己紹介とご一緒してくださった増井先生のお話で予定していた時間に。

しかしその中に、遠方から初めて参加されたご夫婦が居られたので、声をかけてみた。
わざわざ遠くから時間をかけて来られているので、それなりの思いをお持ちだろうし、落語が目当てで来られたんじゃないだろうし。
一緒におまいりしていたOさんも気にされていたようで、私に「このまま落語でいいの?」というメッセージを顔に出されていた。
「あぁ、私だけが気にしてたんじゃなかった」と、後押しをいただいて、声がかけやすかった(Oさん、ありがとう)

おひとりは座布団に座って、おひとりは少し後ろでいすに座って…私としてはちょっと気になる位置関係だったけど、自然にそうなったならそれでもいいなと思い、こちらも自然に一緒に下に座った男性を中心にお話を聞くことにした。
その方の来歴(ごく一部)と持っておられる質問。
ひたすら聞いていくだけもありと思ったが、質問の形をされるので答えていくのも必要かなと。

その中身は書かないとして、そのやり取りを通じて私自身が答えながら味わっていたことを。

「行を積む」ということにこだわる話を聞けば聞くほど、「ひとつも善をつめないな」ということがハッキリしてくる。
「一旦出来るだけの行をしなければ、出来ないとわからない」ということをずっと聞いてこられて、「じゃぁ、なにか出来るんですか」と聞いてみると「何もできない」と帰ってくる。
ならば、その「しなければ」というこだわりから離れて「できない」というところに立たせてもらうだけなのに、頭で「できない」といいながら「それでいいんだろうか」と心が承知しない。
そう、自分で出来るか出来ないか、自分の力量を調べて納得しなくちゃならないのなら、時間も労力も必要だろうけど、「出来ないやつ」と見越した上で仏願を起こされているのだから。
そして「聴聞が大事」と言い、「仏願を聞く」とハッキリしているのだから、そこに「出来ないやつがお目当て」ということがますますハッキリしてくる。
そのために、この私のために出来上がったのが南無阿弥陀仏だとハッキリしてくる。
それを「いただいておくれ」「称えておくれ」と願いのエネルギーとして打たれ、響いて飛び出してくる南無阿弥陀仏を飛び出してくるままに称えるんですけどねぇ。

そのことを「じゃあ称名が大事なんですか」とされると…うまく伝えられなくてごめんなさいとなっちゃいます。
そこ(称名)に、自力だ他力だというこちらの計らいや、称名が先信心が先などという理解に力を入れるんじゃなくて、そういう枝葉に捉われている私を「役に立たない」と丸ごと救い上げるだけのものがこめられているからこその南無阿弥陀仏なんだなと。


あと、どうしても「信善」「一念」「信後」と時間軸を基準に考える人が居るけれど、私にはその辺はどうでも良くて(まぁそれは乱暴ですが)、「今わたしがどうか」という点(軸に対して)でしかないんだなと。
過去の心境がどうだとか、これからこの心境を保ち続けるだろうかとか、意味はない。
「信がある・ない」じゃなくて、本願のエネルギーを浴びたらこの「役立たず」がうんもすんも「疑う余地がない」
エネルギーを浴びるその「今」のところで、お手上げなんだとつどつど思い知らされるだけ。


もうひとつ、「じゃあ、その心情は親鸞聖人や蓮如上人がどこでおっしゃってますか」ということを気にされる方も居るけれど、どういわれると困っちゃいますね。
言葉ではあらわせられない「一味」ってのが、先人の言葉に出会うたびにあるんですが、逆引きして自分の心情をお聖教に照らし合わせるなんて…ねぇ。
というか、すべての言葉を知っているわけじゃないし、書物に残されていないものもあるかもしれない。
なにより、同じ身の上じゃないんだから、表に表れる言葉の中に潜んだ人生の機微なんてものが摺り合わせ出来ようはずがない。
でも、歎異抄や御文章に出会うと「あぁ」とうなづけるんですね。
それは、そこに人間親鸞や人間蓮如を感じるんじゃなくて、言葉から飛び込んでくる阿弥陀仏にうなづける。
それを「声なき声」って言うのかどうかは分かりませんけどね。


うん、どのくらいの時間だったでしょうか、ご一緒させてもらったことで大きく揺り動かされましたね。
求められている答えは出せていなかったでしょうけど、(ひとつ答えてもそれを受け止める前に別の質問になってましたしね)私は得をさせてもらえう時間でした。

私と一緒に気にされていたOさんが、ずっと一緒に聞いてくださってたのもうれしかったですし、心強かったです。
あとから、私が応対するよりG先生を追っかけてもらった方が早かったかな?という気もしないでもないですが…そのときはそんなことを微塵も考えなかったんで、なるべくしてこうなったんでしょうね。

知識や理解を総動員して、納得できる気持ちを作り上げるのって…大変だなぁと。
っていうか、そんなことできるんでしょうかね。
そういう自分に見切りをつけて、腹底の「理屈を越えたもの」が動くままに、「あぁ」と。
南無阿弥陀仏