コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「聞く」をテーマに話したあとの今の思い

2008-10-27 01:10:47 | 真宗
昨日、華光会の京都支部法座で講師として話をさせていただきました。
終わってからいろいろと「これを話したかったんだな」と明確化されてきたものがあります。
話する前の思いと少し変わっているものをあったりしますね。
話した内容は、レジュメをもう一度まとめて、コラムにして見ようと思います。

今までも「聞く」ということをいろんな形で話して来ましたが、今回は最近カウンセリングのワークなども通じて感じている、「自分のうちなる声を聞く」を大事にしてもらうことを意識してもらいたいということを中心にしてみました。

普通、法座では先生の話を通じて「仏の願いを聞く」ことを一番の大事にします。
(今回あまりそこに重点を置かなかったので、同席されたG先生が時間をかけて補足してくださったほどです)
しかし、実際はなかなかそれだけでは満足できず、下手すれば自分の都合の良いように聞いたり、あるいは知識として溜め込むこと聞き方をしてしまうこともあります。

華光では、先生の法話、一方的な話だけで終わるのではなく、座談会を通じて今聞かせてもらった話を振り返ることで、自分が何を聞いているかをもう一度ハッキリさせ、また他の人の聞いたところを通じて、聞き足りなかったところや、違う捕らえ方を通じて「聞きなおし」をします。

でも、そういう時間をすごしても、「響く」「腑に落ちる」「うなづく」この私自身が抜けていれば何にもなりません。
中には、頭の中で「納得する」「理解する」ということで、自分に引き寄せて聞いているつもりの人もいるかもしれませんが、「頭では分かるが腹底にウンといわないものがある」という人もいるように、頭の理解は時間と共に頼りなくなりますし(なかには何を聞かれてもお聖教の言葉を引っ張り出してがんばる人もいますが)いざ命尽きるときは頭の中に詰め込んだ自分のもちものなぞ置いていかねばなりません。

そこで、先生や他人の話…それらを通じて届けられる「仏の願い」に触れたときに、ほんの少しでも動いた「心」の部分を「聞いてみる」ことを意識してもらいたかったんですね。

私自身がカウンセリングを通じて学んだことに、他人の話を聞いて、あるいは自分で話しながら、常に動いている自分の気持ちがあるとき、それを意識し、言語化して、表明するのはかなり大変なことでした。
意識すると同時に、「こんな思いでいいのか悪いのか」「こう思わないと駄目じゃないか」という頭の動きにまぎれてしまう。
でも、ほんの少しの「動いた気持ち」に、自分の内なるメッセージがあることを受け取れるか受け取れないかは大きな違いがあると思います。

法座の場合だと、理屈ぬきに「あぁ、ありがたい」「うれしい」「うん」という動きがあっても「こんな簡単じゃない」とか「これは自力だ」とかいろんな「疑い」に覆われて「これでいいの?」となってしまう。
もちろん、そんなものも含めて光に吹き飛ばしてもらえるのだけど、頭だけを働かせて心が閉じていると「邪魔」ばかりしてしまう。

一方では、ほんの少しでも動いた、「願いに対する自分の心」
もう一方ではそんな願いに任せきれない、なにかしらの「疑いの心」

そういうものを、一度受け止めてみることを意識してもらいたかったですね。

法話のあとの座談会が大事なことは先に書きましたが、流れの中で先生などが一生懸命関わってくださっているときに、「どうですか?」と確認されることが良くあると思います。
そういうときに、自分の思っていることをそのまま出すのは難しいようで、自分の今までの知識と照らし合わせた結果を口にしたり、全然いままでの話を聞いておらず自分の求める答えを再質問したり、うわべで優等生的に納得したフリをしたり…そういうのは本当に堂々巡りになりますよね。
それより、たとえそれが周りの人の期待に沿っていなくても、今実際に自分の中でうごめいている「気持ち」を言葉にしてもらったほうがよっぽどいいですよね。
「わからない」「困っている」「腹が立っている」それでいいんです。
あるいは「なんかあったかい感じがする」「なきたい気がする」それでもいいんです。

逆に、全然動いていない感じがあるならば、黙ってしまったり違うことを話し出したりするよりは、今周りの人が話してくださったことを繰り返してみて、自分の口からでた言葉をもう一度聴いてみればいいんです。
何度でも何度でも。
まったく、一切、何も動かない…それならばそれだけのことでしょうね。

頭の納得や理解で進めていって、どんどんうわっすべりの時間を過ごすより、ほんの少しでも動いている「今・ここの・わたし」を大事にしてみたほうが良いんじゃないでしょうか。