コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

少し具体的に ~日本PTA近畿ブロック研究大会 in 福知山 2

2011-10-18 16:03:28 | PTA

 

午後のプログラムについて書こうと思ったが、午前の分科会で教えてもらった「ハートフルワーク」の内容について書いておきたくなった。

 

先のエントリーで、「体験・体感」ということを書いたけど、具体的にどういうことをしているのか。

 

試み全部を説明はできませんが、印象に残ったものから。

 

見え方に関するものは、大型ペットボトルを真ん中で切って(怪我しないように切り口はビニールテープで加工する)飲み口の小さい穴と、切り口の大きい穴の望遠鏡のようなものを作ります。

で、小さいほうから覗いて見るのは当たり前なんで、その逆、大きい口のほうを両目にあて、小さいほうを景色側にして見ます。

つまりは視界を狭めるんですね。

 

そうして近くにあるポスター(質問を書いてその答えを考えさせたりするようです)を見る。

普段は少し顔を動かすだけで全体を把握できるけど、この状態だとかなり動かさないと全部を把握することはできない。

ポスターいっぱいの動物を数える作業なんかしたら、一度数えたものがどの部分か分かりづらく苦労するようです。

 

また、そおっと横に着ぐるみを着た人が座る。

視界が広いと気付きやすいですが、狭いとなかなか気付かない。

で、声をかけられて横を向くと「あらびっくり!」ってことです。

 

 

このことを通じて、逆に、「じゃあ、そういう状況の人に伝達するにはどういう心がけが必要か」ということを考えます。

「見えているだろう」というこちらの思い込みで行動するのではなく、正面に回って「ここにいますよ」とこちら側が配慮してアプローチする。

それだけでコミュニケーションが変わります。

 

身体的に視界が狭い場合だけじゃなく、何かに夢中になって注意力の視界が狭くなっている人にも考慮すべきことですよね。

 

テレビに夢中になっている子どもに、後ろから声をかけて反応がないとき、ただ叱るのではなく「意識できていない」ことを悟って、正面に回って声をかける。

以前、発達障害の話題でも触れたと思いますが、「聞こえていない」のではなく、音は届いていても「意識できていない」…意識の視界が狭くなってる状況があるってことです。

 

 

 

あと、先にゴムがついて分厚くなっている軍手(安全作業用でしょうね)をはめて、枠内にシールを張るという細かい作業させて見るワークがありました。

 

指先が器用な人と、意識はできても指先がついてこない人…

ご年配の方が、こちらは普通だと思ってる作業に時間がかかるときに「なんでそんな簡単なことができないの」っていらついたりすることありませんか?

 

ハートフルワークの中で行っていたのは、その動かしにくい手先に加えて、周りから「はやくはやく」「もっときれいに」と意識的に追い込むこともしていたそうです。

児童にとっては、うまくできない他の子に「なんでできないの」といらついて急かすことがどれだけ相手を追い込むことを体験できるのでしょう。

またもう一方で、そう急かす役割をした保護者は、普段自分が子どもらに「はやくはやく」とか「もっと上手に」と追い込んでいることが自覚できるようです。

 

親として「この作業ならこれくらいできる」という思い込みの枠がどれだけ子どもを苦しめているか…今回は「意識的に追い込む」ということですが、発表者いわく「得意分野」と自嘲されてました。

無意識に子どもらを追い込んでいることに気付かれたんですね。

 

 

たとえば、休みの日に子どもたちと楽しみたくてお出かけをします。

早く用意をして、早く出発して、いっぱい遊んで”楽しむ”事が目的です。

しかし、用意がなかなかすすまず、いらついて急かしだす。

「はやくはやく」「なんでそんなことができないの」

”子どもと楽しむ”という目的が、”私の計画どおりにことを進める”目的に変わってしまったとき、”子どものため”が”私の思い通りのため”に変わってしまってます。

子どもも泣きそうになるでしょうし、親もいらつくし…これは楽しめませんよね。

 

こういう”目的が変わる”って話は、午後の講演会で話題にされたものです。

 

 

他にも、ひとりはすべて「ぴかぴか」もう一人は「うらうら」しか言葉を話さず、後はイントネーションや身振り手振りで意思を伝えるゲームや、多人数が一度に違うことをしゃべって、その中から目的の言葉を話している人を探すワークもありました。

 

 

 

こういう体験型の「自分の知らない感じ方」の学びは、以前子どもが生まれる前の父親教室でおなかに重りをつけて行動して妊婦さんの苦労を味わうワークがありました。

また、日曜礼拝という集まりで、目や耳をふさいで、誘導されることで、普段と違う視覚聴覚の世界を体験することも参加したことがあります。

 

まずは「自分の感じ方が誰にでも通用するものではない」ということを知ること。

そして、実際に不安・不自由を感じている人の言葉に耳を傾け、自分なりの共感・想像ではなく、相手の訴えたいことを真摯に聞かせてもらうこと。

 

なにか、そういう学びのきっかけができればいいなと思ってます。

 

うーん、課題は山積みで、どれを優先するかが難しいのですが、こういうときは意外と外からふとしたきっかけ・流れが現れたりするものです。

まずは、そういう兆しに気付けるような、オープンでニュートラルな状態でいることからですね。

 

今晩、エンカウンターグループがあるので、こういう感じを言語化して見たら、何か新たな気付きがあるかもしれません。

 

 

これだけでも近P研究大会に参加した意味がありましたね。