延期になった運動会や、人権啓発運動の会議、真カ研の月例会や50周年準備の会議など、仕事以外にも様々な予定が重なり、近Pの話題がまとめられないまま日が過ぎていきます。
しかも、上記のこともあれこれ書きたくなってくるし…
PTAの会議などで出会った方々から「読んでますよ」と言われてうれしいですので、この話題だけは完結させないとね。
ということで、午後の部「記念講演会」のことについて。
午後の序盤は、役員紹介や祝辞、各種表彰などの式典が続き、ひと段落して講演。
講師は「木下 晴弘」氏。
内容は塾講師(難関中高に児童を送り込む有名塾)の経験から、子どもへの関わり方についての話題。
各地で講演実績があるようで、その語り口は興味を引くものがあるし、流暢で話術巧み。
差し込まれるエピソードも、持ってきた話題だけではなく「自分の体験」を中心に話されるので、重みがあります。
が、序盤のところで私にとってはちょっと違和感が。
塾講師時代、なんとか子どもに勉強をしてもらおうとしていた時期の話題で、最初は「そら勉強しろ、やれ話を聞け、何で付いてこない」と外部から煽っていたけど、全然反応がない。
しかし、ある方に相談したところ、「自分からモチベーションを起こさないと長続きしない」という視点を得て、内から自発的にやる気を起こす関わり方を模索されたという。
このこと自体はすごく共感できて、カウンセリングで心を開いてもらう場合でも、外からねじ込むんじゃなくて、ゆっくり相手との関係を築くことで、話し手が自発的に話すのを待つことに通じる。
ただ、違和感の部分は、そういう「自発的」を起こさせるには「どうしたらいいか」ということを考え見つけたという発想。
私的には、「自発」を「待つ」ということがとても大事にしているけれど、ここでの話は「起こさせる」という。
まぁ、受験という「目的」があるかぎり、期限は決まっているし、勉強というやることもはっきりしている。
なので、その「期限のある目的」に向かうには、待っている時間はないし、待っていて「自発」が起こる保証はない。
頭では理解できるが、普段カウンセリング仲間との話で「目的・時間に追われるのは、さびしいこと」という話題をよく話している。
人生・人格形成という面で言えば、一時の「受験時」に達成すべきことよりも、より深いものがあるから、時間制限せず「待っていたい」
先生の話を批判するわけではなく、私のこだわりの部分での違和感なんですけどね。
そうは言いながらも、共感できる話題がぞくぞくと続いていく。
中でも、「受容」(この言葉は使われなかったけれど)の話題は、普段感じていることを分かりやすく説明してくださった。
「人に与えたものは必ず自分に帰ってくる」という考え方を人生観とすること。
”成功者”は、「~して欲しい」という考え方から「~してあげよう」という考え方に変わる人ということだそうだ。
まぁ、この”成功者”も何を持って”成功”とするのかが問題にはなるが、ここでは何かを「成し遂げた人」という意味で。
例としては「松下幸之助」さんや「イチロー」さんの名前が挙がっていた。
「あげる」という与えることをするから、めぐりめぐって自分の元へ入ってくる。
どうすれば「与える」ことが出来るかというと、まずは自分の「自己受容」のコップが満たされていること。
コップは二重構造になっていて、外側の大きなコップの中に「自己受容」の小さなコップがある。
この小さなコップが満たされてあふれることで、やっと外側の他者への関心に水が満たされていく。
そこがあふれると、それは他者へ振舞われる。
そのコップに注がれる水は「感謝」であり、なにより「許し」の心だと。
このことは私が真宗やカウンセリングで学んできたことからとても共感できる。
やっぱり、まず自分が「許して欲しい」のだ。
許される経験なしで、他者を許すことは出来ない。
私の場合は宗教的な「許し」を体感させてもらえることがとても大きい。
この講演では、そのことはまず「親が愛情を持って、子どものコップを満たしてあげる」ことを大jにして欲しいと結ばれた。
そう、子どもの問題は、まず親の関わりが重要だ。
このことは、どの講演でも言われることであるにも関わらず、いまだに「子どもの問題」「学校の問題」「社会の問題」と原因を外において「親」という自分を抜きにして考えがちだ。
実際は、こういう研究大会や各趣講演会に参加する方は意識が高く、うなづいて自覚されるのだが、そのことを知らないままの親が周りを責めていく。
そういう「親」自身がまず「許される」ことを体験しないと始まらないのかもしれない。
そう、目的は責めることではなく、知らないままに人に知ってもらって、「自分を許す」ことから。
もうちょっと、この講演で感じたことがあるけれど、まずはここまでで。
(はやく区切りつけないと次の話題に進めないというジレンマもあるけれどね)