気が付けば、近P研究大会からもう1週間…それともまだ1週間なのか。
かなり記憶や、動いた心のありようは薄れてきてるけど、当初書きたいと思っていたことをなぞりながら、部分的には当時の感動のまま、部分的には時間を経て熟成された思いも交えて。
今、書けるところで書いておきましょう。
今回の記念講演の中で、前回書いた”違和感”以外にいろいろ動いた思い。
まず、「幸せ」って何だろうってこと。
塾での指導を通じて、子どもたちに勉強するという目的を持たせる過程で、保護者たちの声を多く聞かれたという。
その中で突き詰めればほとんどが「我が子に幸せになって欲しい」というものがあったらしい。
もちろん、そう思わない親はいないだろう。
(毎日のように悲しいニュースが入ってくるけど…)
しかし、最初は「だって良い会社に入らないと幸せになれないじゃないですか。そのためには良い学校に入っておかないと…」という声。
それが幸せ?
「だってお金がないと幸せになれないじゃないですか、そのためには良い会社…」
それが幸せ?
この講演ではここまで突き詰めなかったけど、これは「子どもの幸せ」じゃなくて、こうなってくれたら「親が幸せ」ってこと。
自分の”欲”なんですね。
いや、欲があることが悪いんじゃなくて、むしろ浄土真宗にご縁のある私とすればそんな”欲まみれ”の自分を内省するところから一歩が踏み出せるんですが、そのことは今日は置いといて…
自分の”欲”であることを隠して、ごまかして、「子どものため」と思い込んでいるのは結構怖いことなんですよね。
と、講演の話に戻って、この”幸せ”ってことについて、ある映像(編集されたフラッシュ)を題材にされた。
それは、数年前の日航機事故(御巣鷹山)の話題。
異様な動きをする飛行機の中で、死を覚悟(予想)した方の家族への手紙が現場から回収され、その画像を読み込まれている。
残していく家族への「幸せを願った」言葉がつづられている。
その言葉の中に、「良い学校」「良い就職」「お金持ち」なんて言葉はひとつもなかったという。
「家族で仲良く…」そういう当たり前のことを当たり前でいて欲しいという願いだけ。
このことへの評論・解説は野暮なんで、皆様それぞれで。
この映像はとても感動的で、周りをみてもかなりの人がグッと来ている。
でも、ちょっと違う側面の気持ちも私の中には渦巻いていた。
それは、朝、会場に向かうバスの中でも感じたこと。
いや、朝感じたからこのときもそこに引き戻されたんだと思う。
それは、真実の重みがあるのに、過剰な演出はやめてほしいということ。
無意識にその”煽り”を受けて、心が動くことだろう。
そのことがとても気になり、むしろ警戒する私がいる。
朝のものは、仙台のPTAから送られた現状を映したビデオ。
写真をスライドショー形式で編集しているのだけど、そこに大げさなピアノの音楽がつけられている。
とても耳障りだ。
”現実”以上に訴えかけてくるものはないのに、無理やり五感に割り込んでくる。
講演会の映像では、日航機の手紙を、実際の手紙にかぶせてテキストが表示される。
その言葉だけで十分なのに、バックに歌が流れる。
オフコースの「言葉にできない」
わざわざその歌に煽られなくても、十分「言葉にできない」状況で、みな息を飲み込んでいるのに。
(もちろん、その歌は好きだし、歌に罪はない)
煽りもなにもいらない、ただ真実を語る言葉がどれだけ重たいかは、この研究大会の最後に訪れた。
ゲストとして、仙台のPTA連会長が挨拶をされた。
この講演の言葉も引用して(決して批判や批評ではない)
「子どもに親が愛情を注いで、そのコップを満たしてあげるという話がありましたが、仙台ではその親を一瞬でなくした子どもらが数百人います…」
そのことで何か訴えたり、何かを望んだり、何かを批判しているのではなく、ただ”現実”を述べられた。
このこともいつかブログにするかもしれないけれど、今日はここまでで。
同時に、福知山の話題も一区切りにしたいと思います。
前回も書きましたが、講演の内容は「高橋の聞いたところ」であって、レジュメに沿って正確に内容を記述しているものではありません。仙台のPTA会長の言葉も同様で、私の記憶しているところであって、正確じゃないことをご了承ください。