コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

大きな流れの中の、トピック積み重ね

2009-08-24 11:10:07 | 真宗カウンセリング


この週末は金沢での「真宗カウンセリング・ワークショップ」でした。
二日間、9名のグループでのワークに、たくさんの出来事が詰まっていました。
ゆっくり振り返ろうと思いますが、あまりにも内容満載なのでブログにまとめるには時間がかかりそうです。
ですので、まずは感謝の意と私の受けている流れだけでも。

参加してくださったみなさま、ありがとうございました。
役割をあたえ、導いてくださった先生、ありがとうございました。
ワークショップでいろいろ話をする素地を作ってくださった、今までカウンセリングのワークで育ててくださったみなさま、ありがとうございました。
法の部分でも育ててくださったみなさま、ありがとうございました。
これまでのすべての関わりに、ありがとうございました。
それらが、私という個に収束して、このワークショップの時間と場になっていました。
大事なのは「いま・ここ・わたし」
「いま・ここ・わたし」というのは点ですが、その点に至るまでは大きな流れがあります。

すでに、これを書いている私は、二日間のワークを経た「いま・ここ」で動いていますから、振り返ってもまったくそのときの「わたし」とは変わっています。
でも、その二日間がなければ、今のわたしはありません。

まぁ、書いてみて至極あたりまえのことだと思いますけどね。


で、流れとして考えると、このワークの前から連なっているものがあります。
(深いところのつながりは今は置いておきますが)

水曜日に伝道研究会に参加してことはまえの記事に書きました。
このときの気持ちは、その前の日曜日の京都支部法座から続いています。
木曜日に「ミニカン学習会」があり、参加したのですが、2回の実践でひとつはこの日曜の法座から水曜の研究会で抱えていることを聞いてもらいました。
ここで話できた事が大きなポイントになり、自分の中の問題を”そおっと”存在確認をし、「やっぱりまだそこにいるんやね」と。
もう一回の実践では違う話題をするのですが、「あえて触れない」という私自身の判断に、逆に「存在がある」(あるから触れないことができる)ことを浮き彫りにします。
”ある”けれど、置いておく事が出来るわたし。
この押さえが出来る出来ないは、大きな違いでした。

ついで、金曜日にちょっとした打ち合わせがありました。
9月に行う「京都支部学習会」の打ち合わせです。
この学習会では、法座の集まりに「カウンセリング」を取り入れるもの。
「カウンセリング」という言葉を前面に出さなくても、同様のことはできるのですが、提言してくださった方が積極的に「カウンセリング」を意識したいということなので、それは素晴らしいと思い、嬉しく思い、引き受けさせてもらうことになりました。

こうして、わたしなりの「カウンセリング」を十分に意識しての「ワークショップ」への参加です。

ここに書いたのは表面的な部分だけですがまさに”大いなる流れ”の中にいることが実感できます。

後日書くかも知れませんが、ワークショップの中で「仏法」中心の時間がありました。
一方では「法座」から意識されてきた「カウンセリング」
一方では「カウンセリング」の場から意識されてきた「仏法」
同じでも、違うものでもあり。
その中心に私がいます。

あるいは、わたしも含めて全部、大きな流れの中ですね。

今はここまでにします。

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