GWも終わり、明日からPTA関連が慌しく動き出す。
いろいろするべきことが山積していて、これはこれで気持ちの張り合いがあり、充実感がある。
一方で、今までの関わりとの距離感が変わってきたことはここでも何度か触れているが、中途半端な位置づけが精神的に悪影響を及ぼしていることも感じている。
気持ちの中では方向性は決まっているが、「これこれしようと思う」というだけではどうもダメなようだ。
気持ちの踏ん切りをつけることだけでは、頭では切り替えても、腹底の方のもやもや感は払拭されず、たとえば単純作業時の”妄想”に現れて心悩ます。
(おかげさまで、気になって眠れないという性格ではない)
具体的にその「方向性」を決定付ける儀式が必要なのかもしれない。
そのこともある程度決めてはいるが、まだ実行できていない。
それとは別に、ここ1ヶ月ほど気にしていたことがある。
「カウンセラー」という名乗りについてだ。
私は数年前から「相談」を受けることがあり、話を聞かせてもらうことを大事にしてきた。
「カウンセラー」とはどういう人か…「クライエントが居て、継続的に話しを聞く人」というのがひとつの定義であるので、そういう意味ではカウンセラーとしての活動はしている。
しかし、「カウンセラーの資格」を認定している団体があるが、私はその資格は有してない。
私が所属している「真宗カウンセリング研究会」もその団体に属しているから、団体に所属する「真宗カウンセリング研究会」としてカウンセラーを名乗るには、資格の有無は重要になってくる。
ちゃんと資格を取っている人と同列に「カウンセラー」と名乗るのは、ちょっとおこがましいという気がしてきた。
また逆に、私の周りで資格を有して「カウンセラー」という名乗りの元に活動されている方も多く居られる。
その一部に、「身近な人を苦しめる」ことを平気で行う人も居たりする。
また、カウンセラーとクライエントの関係を超えた、感情の関わりをしてしまったり。
クライエントが心を開けば開くほど、そこに芽生える「依存」には心を配らなければいけない。
それが、逆に依存感情を取り込んでそれを超えた感情になってしまうとそれはカウンセリングではない。
(もっとも、当人はすでにカウンセリングの関係ではなく、ただの恋愛関係になっているんだろうけど)
こうなってくると、資格があるから「カウンセラー」と名乗るのも違うと思えてくる。
私としては、”実”の部分で、相談者に寄り添う聴き手でありたいと思っている。
資格やテクニックで「カウンセラー」であろうとは思わない。
こう考えてくると、「カウンセラー」と名乗ろうとするから、資格のある人におこがましいと感じたり、およそカウンセラーらしからぬ人と同列にされたりするのを困ったりするのだろう。
広く、職業として「聴き手」であるためには、わけの分からない名乗りよりは世間で通用するカテゴリーに属するほうが親切ではある。
が、私は開業しているわけでもなく、人づてで「高橋に話を聞いて欲しい」という方と関わりを持たせてもらっている。
なので、カウンセラーという名乗りにこだわりはない。
もちろん、関わりを持たせていただくのは「カウンセラー」の仕事として、精一杯関わらせていただく。
その”実”さえぶれなければ、名乗りはさほど重要じゃない。
かつて親鸞聖人が、僧籍を捨て「非僧非俗」として立たれた。
そして行なわれた活動は、そんじょそこらの「名乗っているだけの僧侶」には出来ない、本当の伝道活動だった。
名乗りではなく、”実”だ。
私は「カウンセラー」という名乗りを捨てようと思う。
なにか良い言葉があればそれを名乗っても良いが、「愚禿」を超える良い名は思いつかない。
(僧を捨てた親鸞聖人は自らを「愚禿」(愚かなはげ)と名乗られた)
名乗りはなくとも、私にカウンセリングをして欲しい、話を聞いて欲しい、という方が居られれば、”実”のところで、しっかりと関わらせていただきます。
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