前回取り上げた「みんなで発達障害を考える会」のあと、ブログで書いたこと以外にもいろいろと思いがわいていた。
そういうものを抱えながら、火曜日にミニカン研修会に参加したけれど、終わってからサークル囲炉裏の方々と少し話をして、思いを言葉にして見ることができた。
もしかしたら否定的な言葉に取られるかもしれないと心配していたこともあるけれど。
じつは、この日のミニカン実践で、初めてペアを組んだ方に自分でも意外と思うことを話していた。
PTA活動でのことを話したのだが、そこに現れた私の根底にあるもの。
何かを表明しようとするとき、「うまく伝わらなければどうしよう」「否定非難されたらどうしよう」そんなことを次々考えてしまう。
そして「こう言われたらこう返そう」というシミュレーションを何十通りも考えていく。
実際にはほんのひと時で済む関わりの事を長い時間思い描くクセ。
それだけで疲れてしまう…でもやってしまう。
そんなことが浮き彫りにされてきていた。
そのせいか、終わってからのひと時では、そういう壁を取り払って言葉にすることが出来ていた気がする。
「発達障害」をめぐる取り組みで、この「考える会」には多くの方が参加されていた。
その目的であり効果として現れるのは、発達障害のことをよく知らない方、誤解している方に、少しでも正しく認知してもらうことの気がする。
もちろん、私も「よく知っていなかった」ことが浮き彫りにされたのは、前回書いたとおりだ。
また、当事者を家族に持つ方のしんどさを共有する場として、同じ境遇の家族や、そういう家族と向き合ってきた当事者さんとの交流の場というのはとても意味がある。
ただ、私が見受ける範囲では、こういう集まりに参加されている当事者さんは世間の場に出てくることが出来る(出来るようになった)方で、受け入れてもらえる場に出会えた方の気がする。
もちろん、そこまで様々な無理解に対する苦悩があったことだろうし、それは現在もいろんな場所で続いているのだろう。
もう一方で、まだそういう一歩を踏み出せていない当事者の方も一杯居られる。
そういう方が、自分のことを客観的に見つめる「正しい理解の場」も必要だ。
この「考える会」はそういう場になりえる。
しかし、その前段階として、「ゆっくり、ありのままで居られる場」ということに触れて、やっと自分を見つめることが出来るんじゃないだろうか。
それには、大人数で、プログラム的に進められるものではなく、それこそ囲炉裏や縁側のような”なんでもない居場所”ということじゃないだろうか。
非構成エンカウンターグループというのは、その一つの回答だと思う。
言葉で説明するのは難しく、実際に体感してもらうしかないのが難しいのだが。
「ただ何もしない」ということとはまた違う、ファシリテーターという存在によって守られる居場所。
うーん、やはり上手く言葉には出来ない。
そういうものを目指している、一つの集まりが6月の終わりに開かれる。
少人数による 真宗カウンセリングワークショップ。
まだ、参加者の募集をしています。
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