今回の法座の中で、もうちょっとだけコミュニケーションを意識したらいいのになって思わされることがいくつかあった。
幸い、少人数の座談会であったことと、司会役という立場でもあったので、気になったことを言葉にして伝え、少しだけ進行の整理をさせてもらった。
ある方(発言者)が今の気持ちをゆっくりと話されている。
最近あった出来事(震災)に絡んで、その後の心境を話されているのだ。
そのうち、その震災に対して、ある方(Aさん)が反応したネット上の言葉をとりあげ、その発言者が「どうしてそんなことを言ったんだろう」ということを話された。
そして、そのときから続く”感じ”を言葉にしようとされていた。
そのとき、ある方が「きっとAさんはこういうつもりで言ったんですよ」とフォロー(?)を入れる。
また別の方も「そうそう、Aさんがそう言われた事情にはこういうことがあって…」と。
この発言者よりも、周りの方は多少事情を知っているかもしれない。
しかし、今大事にすべきは、この発言者の”今の感じ”であって、Aさんへの誤解を解いたり、Aさんの代弁をすることではない。
(ましてや、この場にAさんは居ないのだ)
そのAさんの発言をめぐる話題を通じて、震災と仏法の話が出来ないこともない。
そこから仏法の深い部分に触れていくことも出来るだろう。
しかし、一生懸命”今の感じ”を言葉にしようとする過程だったことを大事にしたかった私は、お二人の発言を止めさせてもらって、発言者の言葉に戻すことをさせてもらった。
結果として、このときの短い時間ではこの発言者が劇的に心情を変化させていかれることはなかった。
しかし、ここに居ない方の話題中心に、ワイドショー的に「私は事情を知っている」「私はこう想像する」なんて展開よりは、じっくり向き合ってもらえる時間が持てたのではないかと思ってる。
また別の場面。
発言者が今の感じを言葉にする過程で「以前はこうでした」ということをいろいろと振り返って折られた。
長く求めてこられた方が、かつてあった心情の変化を吐き出すことで、それらが駄目だったことを確認する作業だ。
そのときある方が横からそっと肩を抱きながら「うん、私もそうだった」と寄り添っていかれた。
不安を持ちながら話する方に、「あなただけじゃない、私もそうだったから大丈夫」という風に、そこに居てあげることは大事なことだと思う。
しかし、そこにもう一言付け加えるものがあった。
「うん、私もそうだった。○○さんはこういう気持ちだったんでしょ」
これは想像であり、自分も似た経験があったからきっと一緒だという決め付けになる。
発言者と、この言葉をかけた方は生きてきた年月も環境も、ましてや聴聞暦はまったく違う。
経験が違うのだ。
発言者の言葉を通じて、自分の聴聞を振り返り、「私はこうだった」ということならば問題はない。
また、まったく違う言葉ならば「私は違う」と発言者もはっきり自覚できるだろう。
しかしこの「似たような感情」は一番やっかいで、発言者が思っている感情が、その”似た感情”にすりかえられてしまうおそれがあるのだ。
ここは、じっくりと発言者が自分の言葉にするのを待っていてほしい。
自分の経験でもそうだが、自分自身で何とか言葉にしてみても、それを口に出したとたんになんかスッキリせず、また違う言葉を捜す作業を繰り返してだんだんとはっきりしたものになっていく事が何度もあった。
そこに他人の言葉が入ると、自分の中からおぼろげに出てきている感じが外の言葉に固定されそうになる。
コミュニケーションの手段の中には、聞き手が流れの中で言葉を駆使して、発言者が言葉にするのを補助・援助するものもある。
しかし、それは発言者がとことん「言葉にする作業」をした上のことで、時間がないからとか、待ってられないからという聞き手の事情で行われるものではない。
発言をさえぎった方には申し訳ないが、私はこの”待つ”というスタンスを大事にしていきたい。
なので、じっくり関われる極少人数の座談が最近は一番心地よいのだが、そうとも言ってられない事情もあるので、少し悩みどころだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます