3日間の華光大会が終わりました。
ご一緒させていただいた皆様、ありがとうございます。
今年も大いなる刺激をいただきました。
一味を深め合う仲間も、求め悩み苦悩する仲間も、そういう様々な”熱”が繰り広げられることによって、私がご聴聞させていただく場でありました。
終えてから振り返ると、いろんな側面で余韻が残ってます。
何回かに分けて書き記そうかなって言う気持ちがあるんですが、いろいろかまけて実現するかは…
でもまずは、法の部分から。
今回、座談会の担当ではあったんですが、自分が先生として入るものと、他の先生と組ませてもらうものと(しかも日によって違う先生)あったりして、それぞれアプローチが違ってちょっと私の中の継続性が弱い感じがありました。
でも、一貫してベースに流れているものは間違いなく同じものですね。
私が先生として関わらせてもらった2回の座談会では、そのベースとなるものが特に強く表れた気がします。
”わたし”の側の求めているもの、法悦であったり体験であったり、納得であったり理解であったり、そういうものと仏法で聞かせてもらうものとは違うと言うこと。
わが身を知ることは大事ではあるけれど、そこは突き詰めれば「聴けるはずのない身」であり、「堕ちていくしかない身」であると言うことで、そこが変わったり良くなったりすることはないですね。
だから「仏様はなんとおっしゃってる?」というところに翻していくんですが、言葉だけでやり取りするとそれも方法論に陥ってしまう。
根本である”仏願”は、私が求めるだとか、私が聞き開くだとか、そういう次元ではないところで、常に・すでに働き続けてるものなんですね。
よく「そのままのお救い」って言葉が使われますが、それは私が「何もしないでそのまま」という自分で放棄することではなくて、「何も出来ない私」という前提の上で、「出来ないものが何もしなくてもOK」という大いなる力が私に働いているからこその「そのまま」なんですね。
その「お働き」を抜きにして、「どうやったら自力を捨てられる」だとか「どうやったら阿弥陀様に向き合える」だとか、自分のありようを何とかしようとする・・・がんばって「そのまま」になることでは決してないんですね。
その「お働き」を感じれば自分の何かが変わると思って探ったり待ったりするんですけど、それも実は大間違い。
こちらが知覚することが出来ないところで、常に・すでに働き続けている。
こっちがそれを分からないだけなんです。
もちろん、分かる力もありません。
でも、よーく振り返ってみると、何かの縁に触れてふと「ありがたいなぁ」とか「うれしいなぁ」とか「申し訳ないなぁ」とか、思わず(自分で動かそうとせず)心が動くことはないでしょうかね。
時には思わず「南無阿弥陀仏」と口をつくことがないでしょうかね。
そんな動きの意味を求めても、仕組みを求めても仕方ありませんよ。
私が知覚し得ない働きがあって、動かされているんですから。
ついつい口から「南無阿弥陀仏」が飛び出す…
私の力でありえるはずがないんです。
それを、やれこれは自力だとか他力だとか、喜びが伴ってないとか叫びあがるものでないとか、そういうありようにとらわれて自分で”判断”しようとしている。
そんなこちらの枠に収まるもんじゃないんですけどね。
こんな私の口からお念仏が飛び出してくることほど、知覚しようのない働きがあるってことの証拠はありませんよ。
この華光大会で、最後のご法話は増井信先生でしたが、まさにこのことを分かりやすく力強くおっしゃってくださいました。
私の言いたいことと同じことを法話してくださるとは流石だなと。
いや、これは冗談ですが…
というか、単なる冗談ではなく、人間的なところでは同じことを考え、同じことを伝えようとすることは偶然のようにも思えるんですが、大元の阿弥陀様の願いがハッキリしているんだから、表現は変わることがあれど、「機の真実・法の真実」は変わりようがないんですね。
(真実がいくつもあったら困ります)
もちろん、その真実を増井信先生はじめ、多くの先生方から繰り返し教えてもらっているのですから。
でも、ただ教えてもらったことを覚えて話しているのではなく、教えてもらったことがこの身にかかっていることが在り難い。
考えて相手の方に伝えるのではなく、湧き上がってくる願い・思いが、言葉になって表れ、相手ではなくこの私自身が聞かされていくんですから、こんなにすばらしいご縁はありません。
この私自身はざるで、教えてもらったことも、気づかせてもらったことも、ましてや阿弥陀様の願いすらすぐに忘れて・・・いや忘れる以前にわからないまま、今ここにいます。
でもそんな聞けない・分からないやつが、常に・すでに働いている法の海に浸っていることで、ざるがざるのまま本願にかなっていける。
私が、法に浸っていることを知らないだけなんです。
増井信先生のお話は、ご自身のブログでも触れられています。
今のこの私の思いを見事に言葉にして、私の目の前にさしだしてくださいました。ありがとうございます。この度のわずかな時間でのかかわりでも、同じことがありました。
「この私自身が聞かされていくんですね。」勿体ないことです。
増井悟朗先生は「華光で話をしている先生はみんな、宗教体験をされています。」とこう、おっしゃっていましたよ?
それで岐阜のO君もそうなんでしょ。なにやら、松尾先生という方が彼の求道体験を絶賛されたとか何とか、そういう話も載っていましたよ。
これが組織認定でなくて何なんですか。O君はよそでも聞いてたんですか? ここだけでしょ?
厳密にいえば他人のことは自分には関係ないですよ。自分一人のために聞いているのですから。
いいたいのは獲信者面をして、こちらを見下してくるな、ということです。
一体、どういう三量批判をされてるんですか?
>”わたし”の側の求めているもの、法悦であ ったり体験であったり、納得であったり理解 であったり、そういうものと仏法で聞かせて もらうものとは違うと言うこと。
これは何度も聞いていますよ。でも、華光誌など、体験発表を読むとこればかり書かれているんですよ。それでもう、獲信者面してる。おかしいと思います。
座談のマナーって、他人の発言を妨げないことが一項に入ると思うんですが、事務局のТさんは僕が発言しようとした時、となりのお婆さんに向かって「聞こえますか?」と一言。あれは悪意を感じましたね。ああいうことをやられるんじゃ、自己防衛が働いて出たくなくなります。しまいに取っ組み合いの喧嘩になるでしょうね。まぁ、なったらなったでこっちもいいたいことをいうだけだけど。
座談については松岡先生の論文も読みましたけど、心的外傷を負って、修復不能になった例など、多々あるようです。
>今のこの私の思いを見事に言葉にして、私の目の前にさしだしてくださいました。
あぁ、なんか伝わってる感じが、こうして言葉にして返してもらうことで味わえます。
こちらこそありがとうございます。
ご一緒できたのはわずかの時間でしたが、目の前に居てくださることがとてもうれしく、安心感があります。
>「この私自身が聞かされていくんですね。」勿体ないことです。
自分で書いたことながら、あらためて味あわさせてもらいました。
ほんと、勿体ないことです。
>いいたいのは獲信者面をして、こちらを見下してくるな、ということです。
おっしゃりたいことは承りました。
「阿波の庄松」さんは、見下してくるな、ということが伝えたいのですね。
見下されたと感じられたことも、そのことを言いたいことも「阿波の庄松」さんの事実ですからそのことは問題にしません。
また、いろんな方の発言を元に、信心を組織認定していると「阿波の庄松」さんが思っていることも、別にかまいません。
私が「阿波の庄松」さんを「見下している」思われて、私にコメントを求められるのならばお答えのしようもありますが、他の方のことは同意も否定もしませんので、伝えたい方に直接お尋ねください。
また、私は会の一員では在りますが、会の”公式な発言者”ではないので、これもコメントしようがないですね。
今日はミニカウンセリングに参加して、いい感じに心が開いているので、不必要な言葉や感情までさらしてしまうかもしれませんが…まぁ、どう受け取られてもいいかな、と今日の私は思ってますので。
どういうことかというと…
自分のよく知っている方を、批判的な言葉で評価されるのは、ハッキリ言って面白くないですね。
もちろん「阿波の庄松」さんが思うことを止めようとは思いません。
そこはどうぞご自由に。
ただ、私に対することはいくらでもお聞きしますよ。
それぞれの方の信仰に関する面は、私はここで触れるつもりはありません。
それは私の仕事・役割ではないですからね。
私には増井悟朗先生も、松尾先生も、O先生も、Tさんも、松岡先生も、とてもかけがえのない方ですし、大好きです。
それを「阿波の庄松」さんが認めようと認めまいと、私には関係ないですけどね。
蛇足ですが、コメント欄は自由なところですから、なにも私に迎合したものだけ書いて後は書くなということではありません。
そうしたければ、コメント欄を認証制にして、気に入ったものだけ取り上げることも出来ますしね。
逆に、自由ですから、コメントしたくないことはしたくないと言いますし、不愉快であれば不愉快だと表明します。
まぁ、そういう表明もしたくないなと思うときは、しないですけどね。