気がつけば華光大会からもう一週間…どうも最近は月日のたつのが早いのか遅いのか、よくわからなかったりします。
平日に法座関連の会議やカウンセリングのワークなどがはいると、色々と濃密になって、一週間前でも遠い昔に思えるし、特に何もないとまだ一週間前の余韻が残ってたりしてつい最近のことに思えたり。
ということで、こんかいはまだ余韻が残ってるほうです。
座談会のときにいろんなご縁で話させてもらったんですが、そういうときに自分の口から話しながらもドキっとする事があったりします。
今回は、たとえ話をしているときにそういう感覚がありました。
「頭で考えるのではなく、胸に、腹に響くと言うのはどういうことなんだろう」というような質問からの流れだったと思います。
私の味わいから行くと、そういう「響き」っていうのは、「予期せぬ気付き」という感覚に近いと思います。
「こう響くだろう」と頭で予測していると、もしなんらかのものが心で動いたとしても「頭での制御」に収めてしまいます。
と、こういうのは理屈で話するとますます頭が働いてしまいますね。
最近、日が暮れるのが早くなりましたが、童謡にもなるように「秋の夕日」というのはなかなかきれいなものです。
毎日仕事仕事で、会社を出るのは日が沈んでからと言う方は仕方ないですが、夕方5時前後に外にいると、きれいな夕焼けが見れるんじゃないでしょうか。
その夕焼けっていうのは、私が見上げたときだけ輝いているものでしょうか?
いえいえ、私がどうあろうと、毎日、万人のために輝いています。
(曇りや雨のときは違うなんていうのはこの際置いときましょう)
じゃあ、夕焼けのことを話題にされて「最近見てないなぁ」と言う方は、単にその時間に外にいないということでしょうか?
いえいえ、おそらく夕焼けが輝く時間に外にいて、目に映っていても、他の事を考えてたり、あるいは何にも考えられないほど疲れていて、脳に映っていないだけなんでしょうね。
では、夕焼けをきれいだなと味わっている人はどういうことなんでしょうか。
きっと、胸に、心に、何かが響いている。
その響いたことを、「この時間だからあたりまえだ」と頭を働かせたり、「大気の層があるから同じ太陽の光でも昼間と夕日とは色が違って」などと分析したりしないで、ただ響いたままに味わっている。
その感動を「きれい」とか「すてき」とか、自分の一番好きな表現であらわしているだけですね。
ふっとお念仏があふれるときがある。
そのことを、理由を考えたり、良し悪しを計ったりせずに、「なにかが触れて、響いて、あふれてきた」とそのまま受け止めればいいと思います。
あふれてきたその刹那は、頭もなにも働かせないで、胸に響き、腹に響きしている「願い」があるのですから。
その「願い」の大きさや深さがわからなくても、確かに響いている。
こちらが知らないだけで、常に「願い」は届いているんですから。
しかし一方で,願われていることを真に知らされるには自力の心が邪魔をしていると思います。何とか何とかという心で念仏を称えています。何とかそのようになりたいという心で仏書を拝読しています。何とか届いてくださいという心で阿弥陀様を念じています。
自力の心が邪魔をしている以上,しかもそれらの行為に付着している以上,どうにもなりません。いっそのこと念仏も称えない,仏書もブログも読まない,阿弥陀様も念じない方がいいのではないかと思ってしまうこともありますができそうにありません。
やはり自力の心を捨てよう捨てようとしながら,願いを感じようとしていくしかないのでしょうか。それとも「がんばってからっぽになること」をせず,捨てよう捨てようとすることに意識を向けないようにして,願われている御心に向かっていく方がいいのでしょうか。
何かコメントを頂けると幸いです。よろしくお願いいたします。
>華光大会で聞かせて頂き「願われている」ということを感じられるようになってきました。
うれしいお言葉ですね。
>願われていることを真に知らされるには自力の心が邪魔をしていると思います。
>何とか届いてくださいという心で阿弥陀様を念じています。
願われていることを知らされたい、届いて欲しい、そういう思いをもたれているのですね。
このことに私がお応えするとするならば、
「願われていることを知ろうと知るまいと、願われている」
「願いが届いたと思われようと思われまいと、願われている」
ということになるでしょうか。
どうしても、こういう風に聞くと、その願いを受け取るステップが私の方に必要なんだと思ってしまうかもしれません。
乱暴に言えば、私がどれだけ無視しようと、必要ないと言おうと、そんなこちらの都合は関係なしで願い続けてくださってます。
私の方にできることは何もないんです。
>いっそのこと念仏も称えない,仏書もブログも読まない,阿弥陀様も念じない方がいいのではないかと思ってしまうこともありますができそうにありません。
「称えない、読まない、念じない…」
この言葉の裏には、「私が称えている」「私が読んでいる」「私が念じている」というものがある気がします。
そうですよね、そうとしか思えませんよね。
でも、意識しないところでお念仏が口からこぼれてきたり、歩いていてお寺の前の掲示にふと目が留まって読んでいたり、阿弥陀様のことに思いが馳せられていたり。
知らない間に動いていることはないでしょうか。
それを「自分がしている」と思っているのは私のほうじゃないでしょうか。
>願われている御心に向かっていく方がいいのでしょうか。
私が向かっていくことはできないんじゃないでしょうか。
もう、御心が飛び込んできていませんか?
「月夜」さんがどなたか存じずに、コメントされた言葉を頼りに、思いつくままに返信させていただきました。
腑に落ちないところ、もっと聞きたい事があれば、どうぞお書きください。
そういていただくことが、私にはとても嬉しいですから。
「願われていることを知ろうと知るまいと願われている。」そうですね。自分の思いに関係なく願われている,願われてきたんだなあと感じます。
だから,私が「称えている」「聞いている」「念じている」のではなく,阿弥陀様に「称えさせられている」「聞かされている」「念じさせられている」ということも「そうだなあ」と感じます。
しかし,これらは感じるということであって,知らされていないのです。そうなんだろうなあと感じながらも,本当だろうかと疑っているからではないでしょうか。
阿弥陀様の御心(そのまま助ける,まかせよ)を頂いていないからだと思います。救われていないからだと思います。
だから心からの安心も満足もありません。(安心させられ,満足させられていません。)
私の方にできることが何もないとすれば…それでも一体どうしたら…となってしまいます。
救われるまでは願われるままにいくということになるのでしょうか。
よろしくお願いします。
レスが遅くなりました。
>願われてきたんだなあと感じます。
>「そうだなあ」と感じます。
まずは、私が書いたことを受け止めていただいてありがとうございます。
その上で
>そうなんだろうなあと感じながらも,本当だろうかと疑っているからではないでしょうか。
「感じる」ことと「知らされる」ことを分けておられるて、疑いがあると自身を見ておられるのですね。
言葉の上で感じることだけかもしれませんが、「知らされる」という響きからいくと、「月夜」さんの望む形で、理解できる形で、受け止めることを大事にされているのかなという気がします。
「感じる」というからには、そう感じさせる「種」があるはずですね。
自分で用意して、「さあ、これを感じよう」とするものじゃなく、「思いのほか」からやってきて触れるもの…そういう「種」。
>頂いていないからだと思います。救われていないからだと思います。
あと「救われる」ということについて少し書きます。
阿弥陀様は「お前を必ず救うぞ」という誓いをたててくださってますが、その根拠や方法は私のあずかり知るところじゃありません。
私の知恵で量れるものじゃないんですね。
一方、私の姿を見ていくと…「救われようがない」ものばかりです。
実は私には「救われた」「お浄土行きが間違いない」と言う実感はありません。
逆に、「地獄一定が間違いない」と。
これさえ、自分の力で知ったわけではないのですが。
じゃあ何があるのか…
「地獄行きでしかない」という私の真実と、「間違いなく救いとる」という阿弥陀様の真実が「在る」と言う点だけです。
>私の方にできることが何もないとすれば…それでも一体どうしたら…となってしまいます。
そうですね、出来ることは何もないといわれても困りますもんね。
そこを言葉にするとするならば、自分の持っている「種」を具体的に見つめてみて、そのときに感じるもの(予想しているもの以外に動くもの)があれば、「あぁ、こう感じているんだ」と素直に受け止めてみること。
最初はここにも損得を持ち込んじゃうかもしれませんが、ふっと感じさせる「なにか」があることから、目を向けていくことは大事だと思います。
私の望む形で,私が理解できる形で受け止めようとしていたと思います。「私」を離れて,「思いのほか」からやってきて触れるもの,そういう種を感じていきたいと思います。
「「救われた」「お浄土行きが間違いない」と言う実感はありません。」というお言葉には驚いています。救われたら,「私は救われた」「私はお浄土行き間違いない」と実感するとずっと思っていました。
今の私には,「地獄行きでしかない」という私の真実も、「間違いなく救いとる」という阿弥陀様の真実もありません。
しかし何かを感じていくことはできると思うので,自分の持っている「種」を具体的に見つめ,そのときに感じるものを素直に受け止めてみたいと思います。ふっと感じさせる何かに目を向けてみたいと思います。
>私の望む形で,私が理解できる形で受け止めようとしていたと思います
素直に聞いてくださってる感じがして、うれしいです。
自分ではなかなか自分の様子がわかりません。
外から知らされる言葉を、受け入れることはとても大事だと思いますし、そうされている「月夜」さんが素敵だと思います。
>救われたら,「私は救われた」「私はお浄土行き間違いない」と実感するとずっと思っていました。
ひとによってはどうですかね、実感できると言う方も居られるでしょう。
私はそこには実感はありませんね。
「救う」「お浄土に生まれさせる」という願いを知らされ、そのための行が成されている事を信じるだけの「種」をもらっています。
そこが間違いないから、「救われた」も「お浄土行き」も、実感がなくても問題ありません。
>しかし何かを感じていくことはできると思うので,自分の持っている「種」を具体的に見つめ,そのときに感じるものを素直に受け止めてみたいと思います。ふっと感じさせる何かに目を向けてみたいと思います。
ありがとうございます。
ご法座には鏡がいっぱい在ります。
鏡に照らされるのが、一番感じさせてもらえるとおもいます。
「私の方にできることは何もない」とお聞きし,その通りだと思います。私の浄土往生のために阿弥陀様が五劫思惟の願と兆歳永劫の行を成就され,南無阿弥陀仏となって届けられているとお聞きすればするほどそう思います。
あとはそれを信じる(信じさせて頂く)だけだと思います。
阿弥陀様の御心を知らされようとして,こちらから力んでも分かるものではない。
私の方で何か用意しなければならないものは何一つない。
その通りのはずなのにそれでも,「どうしたらいいのか」の心が出てきます。何一つ役に立つものなどできない私なのに「できる」と思っている奴がいます。腹底では,願われている御心をはねつけ疑っているのだと思います。
この心が邪魔だから何とかして捨てよう,退治しようと力むのもまた自力だから捨てよなのですね。
阿弥陀様の救いをこちらに引き寄せようと計らうのも自力。何一つ間に合うものはこちらにはないと聞かされても,出てくる「どうしたら」も自力。それが邪魔だから捨てようとするのも自力。
自力我執のかたまりだと思います。
鏡の前に立ち,鏡に照らされ,阿弥陀様の御心を感じさせて頂きたいと思います。
大事なことは全部ご自身のコメントの中にありますよね。
それだけお育てを受けられているんだと思います。
>鏡の前に立ち,鏡に照らされ,阿弥陀様の御心を感じさせて頂きたいと思います。
そうですね。
法の鏡の前に立って見せられる自己。
自分の口から出てくる言葉も、今までのお育てを見せてくれる鏡です。
私が信じる前に、お働きがあるんですね。
日常生活の一コマを通して,阿弥陀様の御心を感じさせられることがあります。今日は私と母との間に起きたある場面を通してこんなことを感じました。
阿弥陀様は私に向かって,「お前の往生の種はもう出来ている。浄土往生に必要な願も行も南無阿弥陀仏に封じ込めて,お前に届けている。どうかその南無阿弥陀仏を受け取ってくれ,自分の方ばかり見ておらずに,せっせとやっているその行いもやめて,こっちを振り向いてくれ。振り向いてくれたらつながれるのに。」と言っているように感じました。
一方,当の私は,浄土往生に何の役にも立たない,むしろ邪魔になるような行いをせっせと励んでいる。阿弥陀様は「そんなことしていても役に立たないし,時間の無駄だし,私の仕事の迷惑だから,すぐにその手を放してこっちに振り向いてくれ,そして私の声を聞いてくれ」と叫んでいるのに,全く耳が聞こえないのか,聞こえていても無視しているのか,黙々と役にも立たない作業を続けているのが私の姿のように感じました。
日常生活のいろいろな場面からも,阿弥陀様の御心に触れさせてもらえるのでしょうか。また,いつ何がご縁となって救われるか分からないということでしょうか。
他力回向とお聞きしているので,自分が望んでいるときや「今こそ」と決め込んでいる時ではなく,不意に何かの縁で救いにあずかるものなのでしょうか。
日常の出来事から感じたことを書いてくださったのですね。
どういう出来事かはわかりませんが、そういう時って普通は「自分の見方」と大事にすると思うんです。
でも、「月夜」さんは一歩すすんで「阿弥陀様はどう見ておられる?」と感じておられるようですね。
わたしは、これが十分「お働き」だと思います。
そのお働きを「これがそうなんだろうか?」と量ってしまうのが私の姿ですね。
よくよく見れば、私のほうにそんな「阿弥陀様はどう見ておられる?」なんて触れることなんて出来るはずがないんです。
「いや、自分で一生懸命聴聞して、お聖経を味わって…」と自分の努力を根拠にする方も居られますが、そんなところに力を入れないで、素直に「ありえない」感じを味わっていることを喜ばせてもらえば良いと思うんですね。
「有りえない」「有る事が難しい」…だから「有難い」なんですから。
>日常生活のいろいろな場面からも,阿弥陀様の御心に触れさせてもらえるのでしょうか。
わたしがそうと思わないだけで、触れさせてもらってます。
>また,いつ何がご縁となって救われるか分からないということでしょうか。
救いの種はすでに阿弥陀様にあります。
ご縁はそれに気づかせてもらう手立てですね。
>他力回向とお聞きしているので,自分が望んでいるときや「今こそ」と決め込んでいる時
>ではなく,不意に何かの縁で救いにあずかるものなのでしょうか。
日の光は、「さぁ見るぞ」と望んだときに出てくるのではなく、すでに照らしているんですね。
それを何かのご縁で…たとえばだれかが「いい天気ですね」と言ったのを聞いて顔を上げたときに、日の光が燦燦と輝いているのに気づいたりします。
ずっと光り続けてるんですね。
また、自分の影があることを気づいたときに、その影は日の光で出来ていることを知り、日の光があることを知ることもあります。
まぁ、ただのたとえ話ですから、「月夜」さんのお心に沿っているかはわかりませんが。
でも、「~でしょうか」と疑問として聞いてくださってますが、しっかりとお育てに預かっているから、「月夜」さんのなかにちゃんと答えが届いているように思います。
それをこうして書き込む・話すことで、外に出してご自身で見つめなおしてみるのは、とても大事なことだと思います。