サボってる間に年が変わりました。
今年もよろしければお付き合い願います。
ここ数年、「新年に志し新た」と言う感覚が年々薄れ、むしろ「大晦日と新年の変わり目の刹那で、この私のいったい何が変わるというのか…」と天邪鬼なことを考えてる次第です。
振り返れば、誕生日を境に、昨日まで少年法の保護にあった人間が一般に扱われるようになったり、酒・煙草がご法度だったのに解禁されたりだとか…人間が勝手に定めた時間の単位でもって、いったい本質の何が変わるのか…ということをずっと考えてきました。
そういう時間軸の問題ではなくて、本人の自覚・成長の問題なんだろうと。
しかし、帰結するところは「そういう自覚と言う不確かなものに頼らざるをえないから、時間と言う客観的なもので計るしかない」ということになるのですかね。
というような愚痴愚痴したことを、新年早々のSNSに書き込んで、新年を迎えておりました。
今年は娘の受験もあって、毎年恒例の連れ合いの実家にも行かず(帰省と言うよりは新年のお手伝いが目的でしたが)久々に京都で新年を迎えました。
ということで、元旦は朝から母方のお墓参りに行き、祖母のお見舞いに行き、午後から華光の修正会にお参りしてきました。
(本当は、本山の元旦会に初詣でするつもりでしたが、気がついたら6時だったもので…)
で、祖母の病院にいったとき、世間では元旦と浮かれているときも仕事をしている看護士の方の姿を見、まずます「新年だからって変わらんよな」と。
さらに、寝たきりの祖母の姿から、祖母にはもう旧年も新年も意味がなく、朝も夜もなく、静かにここに「居る」姿をみました。
そんな想いを抱きながらお参りした修正会ですが、やはり帰るべきは虚仮の姿ではなく、法に照らされたところなんだなと。
増井先生のお話は「いろはうた」を題材に、無常を教えてくださいました。
だからこその南無であることも。
(修正会・いろはうたの話題はかりもん師のブログで)
そう、私の中には「昨日と今日で何が変わった?」という感覚と、「昔の私と今の私で何が変わった?」という感覚の、二つのスパンで味わうものがあります。
1つの意味では、変わっていないと思っているのは私だけで、この刹那刹那に常ならぬものはないという事実があることを。
また、変わっていないつもりで、ほんの一日の間に食べた食事だけでも多くの命をいただき、罪を重ねていることを。
さらには、その境目がどこだと言うことではなく、常に照らされている法に「南無
」と応えさせていただける身にしていただいているという大きな変化があるということ。
もちろん、その中には変わらぬ因果の道理によって、「堕ちるしかない身」という”常”があるということも。
年賀状を作成しながら子どもの成長に驚き、祖母の姿に元気だったころの思い出を探り、自分を横において「変化」を見せ付けられながら、無常を無常と知れない身を感じます。
いや、感じないだけで、事実はここにあるんですけどね。
最近お会いしたばかりですよね。
私も正月もなにもない生活をしています。何時もきれいにしている(?)から大掃除もしないしなにも変わらない日々です。
こんな生活を送っていると、反対に正月は5万円ぐらいのおせちを頼んでワインで乾杯といきたいところですが、子供と二人だと思うと味気ないことだろうと勝手に想像しています。何をやってもやらなくても寂しさわ変わらないですね。そう、私の心は、、
明日は例の九州の歯医者へいって来ます。トホホ、、また大金が、お金がない、でもいって来ます。
という事は、前回までのは満足でなかった。思うとうりではなかったという訳です。
しかし、今回のは満足だった。思うとおりだとうれしい、そうでなかったら愚痴る。そういうのが私です。その場、その時でコロコロ変わる私を認めてやるしかない。それが私なんだから。今の気持ちを綴ってみました。
でも心は乱れ辛いから、恥ずかしいけどこんなふうに書いてるんだろうなぁ
いろいろ聞いて受け止めてほしいんだろうなぁ(だろうなぁって曖昧にしてるとこがいつもの私らしくない)
夜の手紙はなんとかって言うから、このコメントも朝読んだら赤っ恥かも?
報恩講さんでは、2日間ありがとございました。MANUさんと初めてご一緒させていただき、悟朗先生のクラスも初めて。でもぜんぜん不安じゃありませんでした。
日頃、ここを覗いてるから、MANUさんが人とかかわる姿勢みたいなものに深い信頼を寄せているから。
おかげで、ご法話はもちろんですが、私にとって本当に尊いご縁になった報恩講さんでした。
音声回向をそのまま、素直にいただくことができました。
親鸞様のご恩を、少しだけ私のところで感じることができました。
それもこれも阿弥陀様のご念力ですね。
この石礫を憐れ、愛しいと諦めず願い続けてくだる。
本当に勿体ないことです。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
「大好きな」なんてつけていただいてうれしいです。
コロコロ変わる「ばば」さんですから、どうぞ思い立ったときに書き込んでやってください。
って、すでにリアルでお会いしちゃったから、レスが味気なくてごめん(笑)
「relax」さん、どーもです。
事実としての無常があっても、無常と知れん私はシラーっとしてるんですね。
うん。
>いろいろ聞いて受け止めてほしいんだろうなぁ
曖昧な感じも含めて、受け止めて欲しい「relax」さんがいるんだなって受け止めました。
今の私は法座の後の感覚で居るから、法にたった思いが強く出るコメントになるだろうなってことを自覚した上で…
どんな思いのところに居る「relax」さんのことでも、私以上に阿弥陀さんはお見通しで、受け止めてくれますよ。
赤っ恥、OKです。
「有情」さん、どーもです。
すいません、今回は早く更新しちゃいました、タッチの差ですね。
こちらこそ、二日間ありがとうございました。
そうか、一緒に組むのは初めてでしたか、ぜんぜんそんな気がしなかったです。
それが私と「有情」さんとの関係でしょうかね。
心配りされてる役割のところでの姿も、打って響くようにお念仏されてる姿も、とても尊く拝見してました。
だからこそ、私も安心して参加させてもらえました。
同じ空間をご一緒できて、こうしてコメントくださって、とてもうれしいですし、ありがたいです。
ほんと、阿弥陀様のご念力で、お同行の姿として法を届けてもらってんるんだなって思えますし、法座はすばらしいですね。
ありがとうございました。