コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

報恩講 ~召還の呼び声

2011-01-11 09:03:27 | 真宗

二日間の報恩講が終わりました。

今回は、久しぶりに増井悟朗先生の座談会に司会役で配備され、いろいろと味わいが深かったですね。

以前書いた華光大会の時もそうでしたが、座談に対する私の確固たる思い(確固とはいえ時と共に移ろってますが)と、目の前に繰り広げられるものにしんどさを感じるところがあります。
大事なことなのに、「否定」という刃でしか伝わらない伝え方はその場に居て心苦しくなります。
伝えたい方の思いもわかるだけに…ねぇ。


一方でそんな伝わり方への想いを超えたところで、法の前に照らし出されるものに浸らせていただいた二日間でもあります。

その味わいは、終わってからちょっと呑みに行ったときの何気ない話題からハッキリと私の中に言葉にさせてもらいました。

「私の居所」

これが二日間のご縁の中で聞かせていただき、目の前で繰り広げていただいたもので味わえたんですね。

他人に伝えるための言葉ではなく、私の腑に落ちるところでの言葉なのですけれども。


今、ここ、この刹那に届いている呼び声に、応えさせていただくだけ。

それが一念だとかそれとは違うとか、そのためには堕ち機が知れていないととか、無常観や罪悪観はとか…そういうものが「居所」をはかるものだと思われがちなんですが、そうではない。
届いている声に忘れがちなこの私が、居所を問われたその刹那に、届いている声に気づかされたなら、たちまちに南無阿弥陀仏と応えさせていただく。
次の瞬間には、それが全力だったのかそうじゃないものかとか、でもまだ足りないものがあるとか、いろんな想いが襲ってくるかもしれないけれど、まずは称えさせていただく。
そして、そういう想いによって、「ごちゃごちゃ考えるのが私で、それがお目当てなんだ…」と願いに気づいたなら、その刹那に応える。
「忘れっぱなしのやつやな」と実機を知らされたなら、その知らされることがお働きなんだからその刹那に応える。

振り返れば、そういう「ごちゃごちゃ」理由を並べ立てる輩だから、機の中身や法の中身を懇切丁寧に先生方が説いてくださっているんであって、つまるところは「南無」に「南無」で応えておくれってことなんですよね。

一瞬前までごちゃごちゃ考えてるし、一瞬後にはまたごちゃごちゃ考えるんだけど、この刹那だけは応える。

「いや、それができないんですよ」
「称えるだけならできますが」
「でも響かないんです」
などなど、いろいろおっしゃりたいことはあるでしょうがね。

先手の「南無」はいついかなると時いかなる場所にも満ち満ちているんですから、私のほうの接点は「今・ここ・わたし」で応えるだけですね。

 


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