コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ミニカン継続学習会11月 ~華光大会の関わりを振り返って

2010-11-28 17:30:28 | ミニカウンセリング

今月のミニカン継続学習会が木曜日に行われた。
参加者3人に世話人3人、3組でのミニカン実践が2回。

前半の組み合わせで、最近の心境を聞いてもらうことでゆったりと振り返ることが出来、後半の組み合わせでは具体的に先日の華光大会で感じたことを話してみた。
カウンセラー役を引き受けてくださった方もその法座に出られていたので、細かい状況説明なしで話せるのが少ない時間の実践ではいい具合に働いた気がする。

このミニカンを通じて、このブログにも書きたいと思っていた、座談を通じて感じた”関わり方”の問題が寄り鮮明になった気がする。

先日、華光大会の話題をこのブログに書き始めたとき、ひとつは法にたいする思いで、もうひとつは先達への思いであり、その二つはすでに書かせてもらった。
その一方で、座談会で感じたことは、私の中では鮮明になってるけど、こうして外に出すにはいい言葉が見つかっていなかった。

ここ数回の大きな法座では、わたしは少人数限定の部屋を担当していた。
どうしても大きな行事のときは座談会の時間が少なく、さらに大人数が集まることで一人一人へのゆっくりとした関わりが出来なくなってしまう。
また場面的に、複数の方が一人の方に「伝えたいこと」を勧めていくことで、一番大事にされるべき「求めている方の今・ここのありよう」を待ちきれずに進んでしまうこともおこったりしている。
いや、確かに無常と言うことを正面から捕らえれば、”この次”などあるはずもない。
そこはよく分かる。
そんなとき、少人数の部屋では、ゆっくりと、少なくとも目の前の方が、自分の話したいことを言い切るまで待って進めることが出来る。
まぁ、あくまで比較のレベルだけど。

それは、カウンセリングのワークショップや、支部での学習会などでも念頭において進めてきていること。

しかし、久しぶりに大人数の座談会に関わらせてもらって、話し手になっている方のペースを待ちきれずに、複数の方から言葉が投げかけられる場面になってしまうのを感じた。
なんとか割ってはいって話し手の方の気持ちを確認するんだけど、表に表れている言葉や態度のところにどんどん周りの人が反応しちゃって…

気持ちを言葉に表すってのはとても難しいことで、時には(人によっては)いろいろ回り道をしながら、やっと自分でも気づけていない自分の本当の気持ちに素直になれていくし、さらにそれを外に出る言葉にしていくのはとてもデリケートなものが必要だと思う。
逆に、攻撃的な意思から自分を守ろうとする反応はすばやく、開きかけているものが閉ざされるのはほんの一瞬の出来事。

確かに、仏法に関わることは、こちらの都合・思惑を超えたところにある。
そこへのこだわりを捨てることは大前提だ。
駄目なやつがいくら頑張っても、それは自力でしかない。
駄目を駄目と知ることが肝要ではある。

しかし人間通しの言葉の関わりを、その奥底にうごめく微細なものを無視していくと、伝わるものが変わってしまう。
流れの中でじっくり伝えることなので単純に画面上の文字で伝えることは難しいのだが、今できる範囲で言葉にしてみると…

「駄目な私」ということを「駄目でない」ようにするのではない。
「駄目な私」というありようは否定されるものではなく、そこがお目あて。
「駄目な私」だからこそ、本願が起こった。

微細なところを表そうとすればするほど、言葉数が多くなってきていやになるのだが。

しかし、座談の場面などで、攻め立てるような口調、話し手の言葉をさえぎるようにかざされる真実(と思っている)の剣で責められると、「駄目な私」が否定されることが一番の問題になってしまう。
駄目でないようにすることしか考えられなくなる、あるいは駄目がお目当てだと言うところを信じられなくなる。
今の”ありよう”が否定され、ひどければ今の自分の全人格が否定されたようにしか伝わらなくなってしまう。

もちろん、伝えようとする方の気持ちも分かるし、そのやるせない思いは聞き届けて欲しいところだ。
しかし、思いより先に、態度や口調や言葉が伝わってしまう。

今回の法座を通して、ここの伝え方・関わり方がとても大事なんだけど、時間や人数の問題で難しいことも痛感した。
出来ないことを嘆くのではなく、そこをゆっくりと関わる機会がもらえるのならば、私に出来ることは精一杯させてもらおうと言うことと、すでに確立されてきている真宗カウンセリングや学習会を大事にしていきたいと言う思いがハッキリしてきた。

しかも、ここの大事さを共に深めていける先生方が華光には居られる。
それに、私の関わり方だけが正解ではなく、人によってはその厳しさから頑なな心を一歩踏み破って前に出てこられる方も居られる。
そこは、他の先生に任せておけばいい。
なにも私がオールマイティに全部引き受ける必要もないのだから。


この私のために、法座のすぐ後に思いを聞いてもらい、言葉にすることで、明確にしてもらえるミニカンというご縁があった。
カウンセリングから法を味わえるし、法からカウンセリングを味わえる。
”すごい”ことが、私の中で起こっているのを感じる。

 


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2 コメント

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今度は風邪・・・ (カワラヨモギ)
2010-11-28 21:54:01
MANU.さん続けてコメントします。
学習会に行けず残念がっておりましたが、
Y子姉妹と ばば さんとそのお友達でMANU.さんも たぶんご存知の(ワークに参加されるので)Tさんの畑へ見学に行き、楽しかったです。
実は風邪でぐったりしていたのですが・・・

帰りに ばばさんのお宅で美味しいコーヒーをいただきながら、昨日なぜブルーだったかも聞いていただきました。

今の今も大海にどっぷりだよと聞かせていただきました。
南無阿弥陀仏に込められたもの・・・
碍は衆生にあり・・・

ぐずぐず言うのは私でした。


あと・・・この鼻・・・へっくしょ~ん
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re:今度は風邪 (MANU.)
2010-11-30 00:59:42
「カワラヨモギ」さん、どーもです。
学習会、来られれば来られただけのご縁もあるでしょうが、来られなければ来られないなりにそれもご縁だったりしますしね。(体力的・金銭的にも無理は禁物ですから)
しかも、実際に畑見学や、そのときにご一緒できる方々といい時間を過ごされたようですね。
聞いていただき、聞かせていただき。
それが一番大事なことですよね。

もうちょっとブルーでも面白かったかも・・・いや、碍がなくなったわけじゃないですから、浮いたり沈んだり、そしてそのたびに聞いていただき、聞かせていただきしていきましょう。
法はいつでも働いてますから。

南無阿弥陀仏
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