コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

自分と向き合う  ミニカン4回目を通じて

2011-06-03 00:00:30 | ミニカウンセリング

記録は前後するが、火曜日には色んな出来事があった。

朝から、祖母の100日法要

昼からは、PTA関係でミーティング

夜には、真宗カウンセリング研究会のミニカン

 

法のこと、PTAのこと、カウンセリングのこと…まさに、このブログ記録している私の関心ごとが一気に訪れた日だ。

それぞれ、いろんなことを感じていたのだが、そのことが夜のミニカンで行ったクライエント役15分間で意識化され、根底にあるものが言語化されてきた。

 

すでに二日経っているので、そのときの気持ちとはまた違ってきているけれど、もう一度ブログにすることで言葉にしてみたい。

 

 

祖母の法要は禅宗で、般若心経などをお勤めした。

真宗にご縁がある私にとっては、個人のために経を上げて個人の得にするという感覚はない。

しかし、普段触れないお経であっても、そこに書かれている言葉に普段真宗でお勤めするのと同じ言葉があちこちにちりばめられている。

 

実はその時はあまり祖母のことに心が寄っておらず、そういう宗教的な部分での思いしかなかった気がする。

しかし、最後に今後の予定を相談していたら、この祖母が住んでいた家で法事をするのはこれが最後だということが明らかになってきた。

祖母の家は借家で、祖母ひとりが住んでいた。

なので、この100日法要が終わり、あとは残っている荷物を片付けて1ヶ月以内に契約を終えることになる。

 

お勤めの中に、名前は忘れたが「嘆くことに区切りをつける」という意味合いのお経があったことを聞いた。

祖母への別れと共に、この家とお別れすることを実感したことで、逆に区切りが付かなくなった私がいた。

なんともいえない気持ち…

 

このことをクライエントとして話したときに「寂しい」という言葉になって現れてきた。

この家で祖母と暮らした6年間の思いが、ここにとどまることを許されず、形としてもなくなっていく。

無常の教えで十分に知らされているというのに、そこに手をかけ、頼り、失われることを認めたくない…

なんともいえない寂しさだ。

死ということは、別れということはこういうことだ。

 

 

一方、PTAのミーティングでは週末に行われる「山の家」という4泊5日の行事にボランティア参加するPTA役員や学生らとの打ち合わせ。

私自身は「子ども大会」という子どものための宿泊行事を経験してるからある程度分かるけど、やっぱり子どもの安全面もあるんで綿密な進行打ち合わせ。

それに先駆けて子どもらとの対面式があったけど、2クラス分ひとりづつ自己紹介。

挨拶の規範を示すべく、「○○です、よろしくお願いします」という子どもらに、こちらも全部「よろしくお願いします」と言葉にして返す。

立ち上がって、しっかりと挨拶する子はいいんだけど、立ち上がりながらしゃべりだして、立った状態でとどまることなくすぐ座る子どもが多かった。

こちらの挨拶のタイミングが取りづらかったなぁ。

土日の二日間だけ手伝いに行くけど、声をかけて挨拶することをできるだけ実践して、挨拶の気持ちよさを伝えたいなと。

 

 

と、午前・午後だけでかなり複雑な心境のメリハリ。

テーマをつけるとしたら「別れと出会い」か。

 

ミニカンは先週休んだので、ちょっとわくわく。

今回から蓄語録の検討も始まって、ミニカンらしくなってきた。

後半には15分の実践だけど、今回初参加の方とペア。

蓄語録からインスパイやされた話題から、ご自身の今やりたいこと、そしてそこに関わるカウンセリングへの期待と不安を言葉にされた。

 

私の中に、その方のカウンセリングへの関わりに関して伝えたいことがでてきたけれど、ここは話題の中身についていくのではなく、クライエントさんの気持ちに寄り添っていく。

交代して自分がクライエントとなったときに、先に書いた法事での思いを言葉にする。

「寂しい」という言葉に集約したときに、しっかりその言葉を返してくださった。

そのことで私の中にあった「言葉にしたい思い」は昇華された。

それは、こうしてカウンセリングという関わりのすばらしさを再確認することだった。

そこで、私の中の「この方に伝えたい」ものがむくむくとわきあがってきた。

 

人との関わりの手段としてカウンセリングのテクニックを学ぶことはとても大事なこと。

でも、そうやって「テクニックを学んで関わりたい」と思うことの根っこ、「この人と関わりたい」という”思い”があること、それがテクニック以上に大事なこと。

 

まずは”思い”

だからこそ、相手を大事にしたいという気持ちがでてくるし、大事にしたいから自然と傾聴していくことが出来る。

この”思い”を大事にしないで、テクニックを磨いても…ねぇ。

 

そういうことも言葉にしていくことが出来た。

15分という「私の時間」をもらえることはとても素敵なことだ。

 

 

最後の分かち合いで、「何かを得よう」と参加された方々が、実践に触れることで「自分のことを見つめてみる」方向にシフトしていかれるのを感じた。

あぁ、これがカウンセリングだなぁ、と。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めから分かっていました。 (阿波の庄松)
2011-06-11 00:24:32
かりもん先生のコメント欄を外されたことで私を憎く思う人もいるでしょうが、私は何も間違ったことは書いてないつもりです。

先生と名のつく人は質問攻めにされることを承知で先生にならなければならないと思います。

私、初めから助けてくれる人なんかいないことは分かっていた。だから、華光大会で誰も助けてはくれない。ただ、仏様だけだといったんだな。

はっきりいって、かりもん先生のブログでの発言を読む限りでは獲信者とは思えません。獲信者なら、もっと獲信者らしくしたらどうか。全部、捨てろ。捨てられるはずないだろうが!!
綺麗な奥さんも子供も映画も捨ててみろ。できやしないだろうが!!

座談も本当に蓮如上人のおっしゃる座談なのか
いいがかりをつけてきたり、責め立ててきたり、どこが談合なのですか。華光誌のバックナンバーを見ると異安心としか思えない。

相愛大学のK氏にも聞いてみたが、弥陀の法水流すべし…とお聖教には書かれている。なのに、なぜ、獲信宣言をして、華光会から離れていくのでしょうか? それは真実信心ではないからです。

私は今の浄土真宗にうんざりしている。ネット検索したら、親鸞会、華光会ばっかり!!
それで華光会批判をしたら、親鸞会関係者と決めつけてくる。相当、嫌なことがあったんだろうね。

今、私は勧学の梯先生の元で聴聞していくことにしました。俺は華光の連中は絶対に許さない。

おまえらもこの先、障害を負う可能性だってあるし、どうなるか分からんのじゃ。私はここの異安心連中、とくに岐阜のOだけど、彼は20年後、華光会に来ていないということに50万賭けてもいいです。普通に生活してきた順縁の人間は仏法聞かなくても生きていける。そこまでの真剣さが出てこないだろうよ。

MANU.さん

あなたもね、組織依存してないで他の先生の話も聞きにいくべきですよ。華光会と心中するのですか? もっと考えた方がいい。私は梯和上の話を聞くのだって、四国から交通費かけて、だよ。あなた、京都在住でしょうに。

もっと考えた方がいい。誰も一緒に死んではくれないんだから。

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re:初めから分かっていました。 (MANU.)
2011-06-11 09:35:04
「阿波の庄松」さん、どーもです。
あなたはそのようにお考えなのですね。

まぁ、私としてはコメントのしようがないですね。

私の後生は、組織でも勧学さんでもなく、私の問題なんでね。
おっしゃるとおり
>誰も一緒に死んではくれないんだから
ということですね。
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