前回は足元を見つめる話でしたが、今回は逆に地に足がつかない話です。
明日、娘の部活生活最後の公式戦があります。(勝てば翌日も続くのですが)
小柄な体格ながら、身体がぶつかり合うバスケでよくがんばったと思います。
その雄姿を観にいってやろうと思ってます。
最後の試合ということを娘に聞いてから、自分自身の昔の話を思い出していました。
私も高校時代は軟式テニス部に所属しており、へたくそながらもがんばってました。
受験のこともあり、ほかの部員よりは一足先に引退する公式戦、その前夜のことです。
試合に備えていつもより早い時間に就寝につきました。
しかし、階下よりただならぬ雰囲気が伝わってきます。
父と母がけんかをしていました。
それまでも口論はあったと思います。
しかし、その日は父が母につかみかかっています。
当然私は間に入り、何とか停めようとします。
父の相手は私になり、いつしか父の手は私の首を絞めていました。
もちろん、殺そうなんて気は無かったと信じています。
本気を出せば、私は父を振り払うこともできたと思います。
いつの間にか体格的にも、力的にも、勝っていたんじゃないかと…それはひとつの意味で衝撃でもありました。
しかし、それよりも父が手を出していることが衝撃でした。
もちろん、体罰として父から”しつけ”を受けてきたことはあります。
ですが、それが母に向かっているのはショックでした。
それ以来(そのことだけではないのですが)父に対して、わだかまりと、溝を感じる距離感が出来たように思います。
先日のブログに書いたように、そんな父と久しぶりに顔を会わせました。
そこにはやけに柔和な父の姿が在ります。
そのとき、私のわだかまりの行き場がなくなりました。
直接対峙して、そのわだかまりを乗り越えていく…フォーカシングなどを通じて、そういうプロセス・変化が通り道だと思い込んでいた感があります。
しかし、わだかまりをぶつけるべき父はそこに居らず、別の人物です。
これはわだかまりが解決したこととは違います。
わだかまりはわだかまりとして私の心の奥底に残ったまま、解決の機会・対象を失ったんです。
これが今後、どのような影を落とすのか、あるいは自然消滅するのか、今の私には分かりません。
同じようなことは他の場面でも起こってきます。
私の心に影を起こした問題がいろいろあります。
なかには相手との関係が変化して氷解していくものもあります。
また、父の件と同じように、こだわった相手が変わってしまい、思いをぶつける対象でなくなってしまって宙ぶらりんのまま、朽ちるのを待っている思いもあります。
へたすると、相手が変わってしまった原因に私も関わっていると責めてしまう心も起こってきます。
解決しない心に、追い討ちをかけるように責める心。
少し幸いなことは、そういう心も含めて、「いま・ここ・わたし」と受け止めるだけの経験が確かにあるってkとでしょうか。
仏法に照らされるわが身の部分と、カウンセリングで培ってきた自らへの受容の経験。
アルコールが入って、よく分からない文章になってる気もしますが、これを記しておきたいなという私の欲求に従っておこうとおもいます。
私はかなえられませんでしたが、最後の試合にかけてる娘を、そっと見守って応援したいと思います。
明日、娘の部活生活最後の公式戦があります。(勝てば翌日も続くのですが)
小柄な体格ながら、身体がぶつかり合うバスケでよくがんばったと思います。
その雄姿を観にいってやろうと思ってます。
最後の試合ということを娘に聞いてから、自分自身の昔の話を思い出していました。
私も高校時代は軟式テニス部に所属しており、へたくそながらもがんばってました。
受験のこともあり、ほかの部員よりは一足先に引退する公式戦、その前夜のことです。
試合に備えていつもより早い時間に就寝につきました。
しかし、階下よりただならぬ雰囲気が伝わってきます。
父と母がけんかをしていました。
それまでも口論はあったと思います。
しかし、その日は父が母につかみかかっています。
当然私は間に入り、何とか停めようとします。
父の相手は私になり、いつしか父の手は私の首を絞めていました。
もちろん、殺そうなんて気は無かったと信じています。
本気を出せば、私は父を振り払うこともできたと思います。
いつの間にか体格的にも、力的にも、勝っていたんじゃないかと…それはひとつの意味で衝撃でもありました。
しかし、それよりも父が手を出していることが衝撃でした。
もちろん、体罰として父から”しつけ”を受けてきたことはあります。
ですが、それが母に向かっているのはショックでした。
それ以来(そのことだけではないのですが)父に対して、わだかまりと、溝を感じる距離感が出来たように思います。
先日のブログに書いたように、そんな父と久しぶりに顔を会わせました。
そこにはやけに柔和な父の姿が在ります。
そのとき、私のわだかまりの行き場がなくなりました。
直接対峙して、そのわだかまりを乗り越えていく…フォーカシングなどを通じて、そういうプロセス・変化が通り道だと思い込んでいた感があります。
しかし、わだかまりをぶつけるべき父はそこに居らず、別の人物です。
これはわだかまりが解決したこととは違います。
わだかまりはわだかまりとして私の心の奥底に残ったまま、解決の機会・対象を失ったんです。
これが今後、どのような影を落とすのか、あるいは自然消滅するのか、今の私には分かりません。
同じようなことは他の場面でも起こってきます。
私の心に影を起こした問題がいろいろあります。
なかには相手との関係が変化して氷解していくものもあります。
また、父の件と同じように、こだわった相手が変わってしまい、思いをぶつける対象でなくなってしまって宙ぶらりんのまま、朽ちるのを待っている思いもあります。
へたすると、相手が変わってしまった原因に私も関わっていると責めてしまう心も起こってきます。
解決しない心に、追い討ちをかけるように責める心。
少し幸いなことは、そういう心も含めて、「いま・ここ・わたし」と受け止めるだけの経験が確かにあるってkとでしょうか。
仏法に照らされるわが身の部分と、カウンセリングで培ってきた自らへの受容の経験。
アルコールが入って、よく分からない文章になってる気もしますが、これを記しておきたいなという私の欲求に従っておこうとおもいます。
私はかなえられませんでしたが、最後の試合にかけてる娘を、そっと見守って応援したいと思います。
>しかし、わだかまりをぶつけるべき父はそこ>に居らず、別の人物です。
>これはわだかまりが解決したこととは違いま>す。
>わだかまりはわだかまりとして私の心の奥底>に残ったまま、解決の機会・対象を失ったん>です。
これまであまり具体的に、積極的に語られなかったことを身にかけて聞かせてもらった気がします。manu.が想定されていたような解決がおこるのかどうかは、ぼくにもよくわかりません。ただ、お父様が変わられた以上に、実は、manu.さん自身も、大きく成長し、変化されているのだなー。それで、しっかりと新たなプロセスが動きだしているんだなーと思いました。
manuさんとNさんと私の三人だけ、ふだんは全く知らないんだから、普通なら緊張するだろうにとにかくrelaxしたわたしでした。
いい格好しなくても批判もされず受け入れてもらえる、そんなとこに身をおいたことは分級以外今までなかったな、疲れていても気持ちよかったです。
聞きたかったこと、話したかったことをかなり出せたような気がします。残った感じがするのは、そこに触れたくないからか、欲が深くきりがないからかはわかりません。わかったことは、わからないこと。はっきりしないし、ピーんとこないし、自分を自分で見たらぼんやりグレーで、だからそこに執着して、なんとか見ようとする・・・はっきりした方がすでにはっきり見越してくださってる。事実を事実として「聞く」智慧を回向してくださる。自分はどこまでもわからんということがわかりました。
manuさんの分級にこられるお同行さんを通してさまざまなご縁にあわせていただき、またmanuさんからも聞かせてもらって今、話したいこともあるのですが、時間の関係上このへんで・・・
子供のがんばる所を見るとホント涙が出ますね
人間レベルでこの感動ですから、阿弥陀様との親子の名乗りとなると・・・しかも、がんばらなくていいよとご注文無し、お差し支えなし、ですからね。
南無阿弥陀仏
そうですね、言葉にして語るのを避けてた気がします。
いやそれ以前の時点で触らないようにしてましたから。
ちょっとこれを書いた日に、アルコールと楽しい語らいがあったことで防御力が弱ってたかもしれません。
また、ちょうど娘のことで、親父のことを考えるきっかけもあったのは事実ですが、その日に聞いた話でもうひとつの事例が刺激を受けたこともあるでしょうね。
どうもしらふだとごまかして具体性にかけますね(笑)
>しっかりと新たなプロセスが動きだしているんだなーと思いました。
そうですね、以前はプロセスは望む形に進めていくものと思ってましたが、予想しない形で現れるプロセスを後から受け止めて行く作業をしている気がします。
法座後に話したり聞いたりしたことを受けて、またなにか動くかなって気もしてます。
まずは明日の伝道研究会でいろんな方の話を聞いてみて…
>普通なら緊張するだろうにとにかくrelaxしたわたしでした。
うれしいです。
とはいえ、ただの休憩室じゃなく、しっかり振り返りや味わいをしてくださってましたから、そこに「法がある」場で語り合い、育ち合い出来たんじゃないかと思ってます。
>いい格好しなくても批判もされず受け入れてもらえる
ねぇ~。
人間同士だけならそれも限定的なんでしょうが、底に「受け入れられている」と感じさせてくれる「すごい」存在がありますから。
迷いながらもここに「在る」私が、その証拠ですね。
ぜひ、またご一緒しましょう。
>残った感じがする
かなりご一緒しましたが、残った感じがあるんですね。
そこをごまかさず「ある」と受け取ってる「カワラヨモギ」さんなんですね。
さらに「ぼんやりグレー」とイメージ化も出来てるなんてすごいじゃないですか。
>はっきりした方がすでにはっきり見越してくださってる。
>事実を事実として「聞く」智慧を回向してくださる。自分はどこまでもわからんということがわかりました。