コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 9月

2010-10-05 16:53:35 | 真宗カウンセリング

もう半月も前になるのだが、9月の20日に真カ研の月例会があった。
このときの月例会で取り上げたロジャース氏の「無条件の肯定的配慮」の学びは、その後の「聞き方・伝え方の学習会」や「エンカウンターグループ」に参加する私に大いに影響を与え、単なる学びから体験を通じて深められてきている。

カウンセリングにおいて、相手を「無条件」に「肯定的」に配慮することは、それを「頑張って行動にする」のが難しいこと。
それは行動が先なのではなく、とことんその「マインド」が研ぎ澄まされることで行動に現れるものだと思う。
その「マインド」の最たるものを言葉にされているのが「尊重する」と言うことだ。

テキストの中の言葉を借りれば

「あなたはこんなときは良いが、こんなときは悪い」というように選択的に評価する態度とは正反対のものである。

ということだが、逆に言えば普段はどれほど選択的に評価しているのかということが照らし出だされる。
そう、なにかにつけ自分の物差しに合わせて「評価」することをしている。
「尊重」しているつもりでも、そこにはこちらの「尊重できる」という評価されたものに対してであって、無条件ではない。

実際に、私が人の話を聞かせてもらうときを思い返すと、その悩み・苦しみに対して「何とかしてあげたい」という意識が強くなる。
それはアドバイスであったり、同調(だと思っている)であったり、激励であったりする。
しかし、そのことは一方で、「今、苦しんでいる」相手を、その状態は”だめ”と評価して、早くそこから脱却することを促す…正確に言えば、脱却することで自分が役に立っていることを自己評価することを求めている姿じゃないだろうか。

クライエントにとって、今の状態を否定されることは、その問題が解決した「理想」の姿をあてにするしかなくなる。
「今・ここ・わたし」が尊重されずに、成長するように頑張らなければいけない。
もちろん、そのことが結果として成長することも多々あるだろう。
しかし、「今・ここ・わたし」として存在し切れないことになる。

ちょっと変な言い回しになったが、「悩んでいる」自分で在りきること、「苦しんでいる」自分で在りきることを抜きに、背伸びして成長しようとしても、そこには無理が生じて、不安定な危うい「成長」になってしまう気がする。

「悩んでいる」自分が「今・ここ」、「苦しんでいる」自分が「今・ここ」
そうあっても良いんだ。
自分自身で「こんなときは良いが、こんなときは悪い」という評価をしてしまう手伝いをカウンセラーがしてしまうことは恐ろしいことだと思う。
カウンセラーに対して言語化することで、「悩んでいる」「苦しんでいる」ことを十分に経験することで、自ら何らかの動きが起こる(それはそのときすぐでなくても、緩やかなものであってもいい)ことが、本当の成長じゃないだろうか。

もちろん、苦しんでいる本人は今すぐその状況から脱却する術が欲しいんだと思う。
しかし、安易な配慮がそれを産むとは思えない。
もちろん、一時的な安定は得られるかもしれないが。

「無条件」で「肯定的」というのは、同じ悩める人間同士の関係では難しいだろう。
しかし、究極の形として「在る」ものだ。

カウンセラーが何かを成すのではなく、「尊重」し「寄り添う」ことで生まれてくる関係。

とても能動的に意識することで生まれる、受動的な行動とでも言おうか。
いやぁ、まだまだ学びは深い。

こんな気持ちで、いろんな方と一緒に、そこに居る一人一人を尊重したワークにしたいと思ってます。
第9回真宗カウンセリングワークショップ 受付中です。


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