コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

諸仏の救いからもれた身

2010-09-11 09:41:46 | 真宗

明日、12日に京都の華光会館で日曜礼拝があります。
今月は私がご法話の担当をすることになりました。
子ども中心の集まりでするご法話ってのはとても難しいもんです。

担当することが決まった直後、小学校のPTAの仕事をしているときに日曜礼拝に来てくれている子に会いました。
「こんどおっちゃんが日曜礼拝でお話しするけど、何のお話がいい?」ってたずねたら「ほとけさまのお話」と一言。

ほぼ毎年ご法話を担当してるけど、どちらかというと「罪悪」や「因果の道理」あたりを芯にすえた話が多かったように思う。
なので、いっちょ「ほとけさま」を子どもに伝えてみることに挑戦してみるかと…

ところがこれが難しい。
いろんな切り口があるけれど、あまり細かく説明する話になるのもよくないし、かといって子どもだからと御伽噺で終わるようなものにするわけにもいかない。
とりあえずレジュメを作成しだして、まとまってきたものを日曜礼拝担当の先生にメールしてみて意見を聞くことに。
そのアドバイスはとても的を得たものだったけど、どうも一番話したいこととちょっと違うところに力点が置かれたアドバイス。
逆にそのことで、何を話したいかが私の中ではっきりしてきた。

「ほとけさま」というのは一杯いて、そのなかの「あみださま」が私を救ってくださる誓いを立てたという話。(うーん、これだけじゃわからんよね)
で、アドバイスは「あんまり他のほとけさまの事に興味がいくより、あみださまにしぼっては?」というもの。
しかし、今回私の中にある大きなテーマは「諸仏に見放されたわたし」それを唯一「一切衆生」を救うと誓願を立てられた「あみださま」ということを話したかったんだと。
だから、あみださまのほかにも、力を持ったほとけさまが一杯いること、また、修行して仏になろうとしている「ぼさつさま」も一杯いるということ。
そのうえで、そのどのほとけさまも私を救えなかったしぼさつのように修行することもできない…迷い続けるしかないわたしだということをはずせない。

そして、そんな諸仏の救いからもれた身をめがけて、ぼさつとなって修行し「なもあみだぶつ」を成就した名であり、体であり、願であり、行である姿。

うん、この流れで話したい私がいるんだな。


あとは、複雑にならないように、盛りだくさんにならないようにちょっと気をつけて、話題が散漫にならないように逸話を削って…
うーん、それが難しいんだけどね。


ここを話したくなってるのは、伝道研究会で「法蔵の発願」をじっくり話し合ったことが強く残ってるから。
そのテキストより抜粋。

「選択本願は浄土真宗なり」とあるが、浄土真宗の根源をたずねれば、弥陀の発願よりはじまる
(五十三仏の出世)久遠の昔、錠光如来をはじめとして、次々に、五十三仏が出世され無量の衆生を教化し、ついには成仏させられた。
(世王仏と法蔵)五十四番目の世自在王仏が出世なされたとき、その説法に感激した国王は出家して法蔵比丘と名乗り、
(法蔵の選択)一切衆生を済度せんがための誓願をおこされ、師仏の指導を仰ぐことによりついに五劫の間思惟し、かっての諸仏のなしえなかった大誓願をおこされた。
(四十八願)そして、これを師仏の前にのべられたのが、四十八願とよばれるものである。

あぁ、今こうして打ち込んでみたら、これを伝えるのってすごく難しいんじゃないだろうか…
えーい、乗りかかった船だ、やってみるべし。


討ち死にするMANU.を見たい方はぜひお参りを。

日曜礼拝


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今の大和には獲信者がいないように思います。 (阿波の庄松)
2010-09-26 05:01:03
≫ふむ、心が澄んでくるのだとして、それは私が自分の力で澄ませてくるんじゃないですよね。

そうです。阿弥陀仏のお力によって、澄んでくるんですよ。それは他力回向ですから、当然です。そういう人が一人もいないのに獲信した、獲信したと自称しているから、華光はおかしいと思うのです。


≫修行などによって煩悩を滅して行くようなこ とはできないのが私。

もし「心が澄んで奇麗になる」という言葉を受け取るならば、世間ごとに対して起こる三業に対してじゃなく、仏智に対する疑いの雲が晴れるという意味で「澄んで」ことじゃないかなと味わってます。

いや、そうではないでしょう。このお聖教は
石泉学派が掲げるものですが、信心=清浄な心と説いていますよ。華光で「親鸞聖人と同じ信心なの」と喜んでいた方(Sさん夫人)がいましたが、だったら、親鸞聖人と同じように自分を殺しに来た山伏に対して、「御同朋、御同行」と迎えることが出来ますか? 馬鹿も休み休みいって欲しいです。

≫もし、煩悩の数が数えられるとして、それが減っていたとしたら…それは私の力ではなく、阿弥陀様の力ですよね。

そうです。

≫だから、この私においては煩悩が減ったなど の実感はなく、むしろますます煩悩まみれな 身が明らかになってきますね。
 それは自分で自分の煩悩を見つめることがで きたんじゃなく、「煩悩まみれがお前の姿  だ」という阿弥陀様の言葉を「信」じさせら れたってことですね。

そうですね。だからこそ、恥ずべし、痛むべしという言葉が出てくる。なのに華光の人は上から目線の人が多くありませんか? 信心の姿とはまったく逆。自分の姿を見せられるんだったら、謙虚になっていくはずですよ。O君など、何で、壇上で話をしているのか、理解できません。僕は組織認定の信心など、いりませんから。


≫「阿波の庄松」さんは怪しいと思われてるん ですね。
 でも植島やえさんが獲信しているかどうかは 私の信には何の関係もないし、「阿波の庄  松」さんがそれを怪しいと思おうが思うまい が、私の信には何の関係もなかったりしま  す。
 正確には、そういう植島さんの姿や、「阿波 の庄松」さんの姿を通して、「私自身はどう だ?」ってところを刺激されるんですから、 関係なくはないですね。

ですね。そのような異安心で喜びたくはない。
だから、本物を探そうと刺激される。あのお聖教を挙げて論文書いているのは信楽峻麿という先生ですので、仏書を読み、聴聞の機会を得たいと思っています。自分が正しいと思う教えを聞かなければ意味はないと思うんですよ。だから、僕はS会とか華光会とか組織に嵌りたくないんです。

>真実信心を獲信すれば、阿弥陀仏のお力によって正しい生活ができるようになるのでしょうね。

≫「阿波の庄松」さんはそうなることを求めて おられるんですかね。
 私は正しい生活なんてことのために「弥陀の 発願」があったとは思えないんですよ。

結果的に白道を渡っていくということはそうなるということで、そうなりたいがために求めるのではありません。まず、後生という人生の終着点を求めることが先だと思います。人情的に
は今の救いを求めてしまいますけど。

今回の書き込みはかなり攻撃的、失礼な内容だったかもしれません。ただ、華光での失礼な振る舞い、O君から「今、どの辺にいるんですか?」と聞かれたり、その他色々あったので、
こうなってしまいました。私だって、10年以上、求めてきている。組織認定の信心など、いりませんよ。本当に信心があれば周りから見れば、もう、分かるだろうし。

今の真宗界、葬式、法事、教学、遠忌のみで、
聴聞する場所がない。S会とか華光会、もしくは著名な先生の説法スケジュールに合わせて聞きに行くしか方法がない。それで自分が正しいと思う先生を選んでいくしかない。だから、ご因縁としかいいようがないというのは、まったく、その通りだと思います。だけど、僕は異安心で喜ぶのは嫌ですから。Sさん夫人がおっしゃっていた「ここ来たら、救われた人いるやん」って、そんな発言おかしいと思うんです。どうにも組織依存の体質から抜け出てないと思いましたよ。

また、余談ですけど真如苑の教書には教相判釈において聖道門、浄土門のことが書かれています。素晴らしい教え(浄土門)なのに、信頼の出来る先生が見つからない。また、どこもそうかもしれませんが、宗教団体、中年から高齢者が多いですね。どうにも高齢者とばかり、話していると調子狂うんですよ。同世代の法友が欲しい今日この頃です。
返信する

コメントを投稿