コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真宗カウンセリング・ワークショップ in広島

2010-08-24 08:50:21 | 真宗カウンセリング

18日から3日間、広島での真宗カウンセリング・ワークショップでした。
結論的には非常に充実した濃密な3日間。

その内容や流れはここでは述べませんが、私の中にはいくつかのトピックが残っています。

まず参加者のことですが、私が何回か参加した真宗カウンセリングのワークショップは、そのご縁の浅い深いはあれど、みなさん、旧知の方とのワークショップでした。
ただ、法座でご一緒するときといろいろと違う関わりがあり、それはそれで新鮮なものです。
しかし今回は、まったく初めてお会いする方も半分ほど居られます。
そのほとんどは、広島の地でのワークショップには参加されており、私がその出来上がった関係に飛び込んでいくというものです。

基本的にどんなご縁との方でも「今・ここ・わたし」ということで、等しく関わらせてもらいますし、それができていると思います。
しかし、この私は完璧なものではありませんから、多少なりとも旧知の方と、新しく出会った方との距離感に差が生まれてきます。
それを”だめなこと”と、自分を責めることはしません。
そういう”差異を感じている私”というところで、そのまま動いていきます。

そんな初めてお会いする方の中にひとり、お会いするのは初めてだけれど、ネット上で数年前にご縁があった方が居られました。
そのことはお互い認識しており、楽しみにしていました。
しかし、私の中にほんの少し”不安”な気持ちがあります。
その数年前のご縁というのは、ネット上の掲示板で真宗のことで熱く語っていた時期で、私自身真宗カウンセリングに出会っておらず、「言い負かしたい」欲にかられてのコミュニケーションでした。
もちろんその当時は「私が気づいた真実を伝えたい」というものですが、今から思えば「法の刀」でもって敵陣に飛び込んでいく行為です。
そのときの「相手の居所」を一切認めようとしない「勝敗」のコミュニケーションで、今から思えば非常に恥ずかしいものです。
そのことを”知っている方”ということが、勝手に不安感を作っていきます。

と、思い返せるのも、この3日間でその方ととても近づけたからだと思います。
今ではその不安は一掃され、次のご縁を楽しみにしています。

あと、人数による距離感というのも感じましたね。
全部で16名の参加なんですが、序盤は一グループで進んで行きます。
どうしても一部の人のかかわりが中心になりますし、「声はなくともそこにしっかりと居られ聞いておられる」という安心感はあれど、「声が聞きたい」「居所が知りたい」と思っている私がいます。
「少ない人数のほうが話せるかもしれない」という声があり、二日目から二つに分かれてみました。
私が担当した方は部屋が小さく、とても近い雰囲気。
それがとてもいい距離感をうみ、また少ない人数ということで私のアンテナ能力にも適い、いい時間をもてました。

ただ逆に、もう一つのグループの話題がわからない…まぁ当たり前といえば当たりまえですが。
離れたグループの方とは少し距離が開いたイメージがあります。
でも、最後にまた一グループになって分かち合ったときに、話題には距離はあれど、顔が見える安心感でなくなった距離もあったなと。

もう一つ大事なトピックがありました。
カウンセリングを学び、自分の心の動きを丁寧に確認しながら話をすることを学んでくると、自分の発している言葉が本当なのか…うそが混じってないか、ごまかしていないか、気になりだすことがあります。
正直に、自分のありのままを表現できない…そのことが気になりだして、ますます口に出てくる言葉と気持ちに隔たりが出てしまう、さらにはそういう自分を否定しにかかってしまうかもしれません。
ある方が、そういう直接的な言葉じゃないんですが、「これはうそじゃないか?ごまかしてるんじゃないか?って気持ちが出てくるかも知れないけど、話してみようと思います」と一言おっしゃいました。
私にはそのことがすごく大事に思えて「うそじゃないかって気持ちや、ごまかしてるんじゃないかって気持ちを持って話しておられるということもあるかもしれないけれど、そのまま聞かせてもらいます」と一言お伝えしました。
私にとっては「聞かせてもらう」という私自身の宣言でしかありません。
しかし、その方には「そのまま話しても良いんだ」っていう後押しに聞こえたそうです。

言葉としてのコミュニケーションとしては、正しく伝わっていないんですから減点ものですが、一つの言葉が、お互い違う作用であれ、そのことで深いコミュニケーションができるきっかけになったという点では理想的な作用になりました。
いや、言葉の意味以上に働きがあった感じです。

私のほうは、ただ聞かせていただくことしかできません。
アドバイスや分析…してしまう心もないとは言いませんが、するつもりはありません。
でも、その「ただ聞かせていただく」ということを通じて、話される方が気づきを持たれる。
気づきによって変化していかれる。
変化でもって成長していかれる。

響き合い 育ち合う 人間関係

そのことを学ばしていただいたことと、学びなんてレベルじゃなく、私の経験として深く刻まれたことがうれしい時間でした。

この三日を通して、他にもいろいろ気づきがもちろんあったのですが、その時点で書き留める気になっていたらまたアップしようと思います。

ご一緒させていただいた皆様、ありがとうございました。


お知らせ:
9月28日より、京都にてエンカウンターグループが始まります。
毎週火曜の夜、10回の連続研修なんで近場の方中心になると思いますが、ぜひご参加ください。
お問い合わせは高橋まで。
manu.takahashi@nifty.ne.jp


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2 コメント

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白道に乗るとは (阿波の庄松)
2010-09-07 02:52:03
僕はお聖教の中でここを一番、重視しています。

此の信と云ふも、自性の物柄を云と、心を掃除して清からしむるなり。心は心王なり。清からしむとは、心が澄んで奇麗になる。其れが信と云ふ物柄なり(『教行信証文類随聞記』)

未聞の前は、機も法も濁り果てて、自身をも見限り詰めることも出来ずにありた者が、仏願の機法を聞て、心が澄んで来る。此れ信心の模様なり。心の澄浄なるが信の自性なり(同上)

華光の自称・獲信者のみなさんは煩悩は変わらないということばかり主張されますが、大きな間違いです。白道に乗るのに煩悩が変わらないということは絶対にありません。(煩悩が無くなるのではなく、減っていくということを意味しています。)

白道を渡りきったところが浄土ですからね。

仏敵も読みましたが、植島やえさんが獲信していたかどうか、僕は怪しいと思っています。

しかし、大乗仏教にしろ、浄土門にしろ、僕にとって一番の敵なのが性欲です。本当は風俗通いなど辞めたいんですけど。この不況で生涯未婚率も33%に達するようです。いくらいっても縁がなければ結婚はできません。

自称ではなく、真実信心を獲信すれば、阿弥陀仏のお力によって正しい生活ができるようになるのでしょうね。大乗仏教の修行においても、大般涅槃経の功徳によって変わらせて頂けるのかもしれません。
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re:白道に乗るとは (MANU.)
2010-09-11 10:18:55
「阿波の庄松」さん、どーもです。
いやぁ、毎度毎度刺激を与えてくださいます。

>仏願の機法を聞て、心が澄んで来る
ふむ、心が澄んでくるのだとして、それは私が自分の力で澄ませてくるんじゃないですよね。
修行などによって煩悩を滅して行くようなことはできないのが私。

もし「心が澄んで奇麗になる」という言葉を受け取るならば、世間ごとに対して起こる三業に対してじゃなく、仏智に対する疑いの雲が晴れるという意味で「澄んで」ことじゃないかなと味わってます。

もし、煩悩の数が数えられるとして、それが減っていたとしたら…それは私の力ではなく、阿弥陀様の力ですよね。
だから、この私においては煩悩が減ったなどの実感はなく、むしろますます煩悩まみれな身が明らかになってきますね。
それは自分で自分の煩悩を見つめることができたんじゃなく、「煩悩まみれがお前の姿だ」という阿弥陀様の言葉を「信」じさせられたってことですね。

>仏敵も読みましたが、植島やえさんが獲信していたかどうか、僕は怪しいと思っています。

「阿波の庄松」さんは怪しいと思われてるんですね。
でも植島やえさんが獲信しているかどうかは私の信には何の関係もないし、「阿波の庄松」さんがそれを怪しいと思おうが思うまいが、私の信には何の関係もなかったりします。
正確には、そういう植島さんの姿や、「阿波の庄松」さんの姿を通して、「私自身はどうだ?」ってところを刺激されるんですから、関係なくはないですね。

>真実信心を獲信すれば、阿弥陀仏のお力によって正しい生活ができるようになるのでしょうね。

「阿波の庄松」さんはそうなることを求めておられるんですかね。
私は正しい生活なんてことのために「弥陀の発願」があったとは思えないんですよ。
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