4月の月例会は総会。
昨年度の事業報告や本年度の事業計画、決算報告や予算案報告、おおむね「総会」というのはそういう流れで運営の現状や予定を話し合うものである。
しかし、良いのか悪いのかはわからんが、そういう報告をきっかけに、「真宗」「カウンセリング」「真宗カウンセリング」に関して、各自が問いかけられる場になり、語り合うことでお互いの「歴史・経験」を通じての「いま・ここ」を見詰め合う”場”になっていく。
考えてみたら、報告議題が全部終わらずに時間切れとなるなんて、「総会」としては問題があるかもしれない。
しかし、満足度は十分ある。
参加した行事の報告を通じて、いろいろな思いがよみがえってくるし、ワークショップや学習を重ねたことで成長(でありたいと思ってる)や変化を感じる。
自分の内部だけで熟成されている「真宗カウンセリング」を、報告するために言葉にする作業で(うまく言葉に出来ないもどかしさもあるが)再確認する。
質問に答えていく中で「法座」や「エンカウンターグループ」との比較を意識し、故西光先生が図式化された「世間の関わり」「法の上にたった出世間の関わり」の差異が明らかにされてくる。
いや、私が明確な意識化、言語化が出来ていなかった部分を、すでにしっかりと教えてくださっていた。
(かりもん氏のブログにも話題にされています)
自分の立ち位置というところではハッキリするが、それを説明するのは難しい。
つくづく、学術的に整理する能力に欠けていると痛感する。
良い言い方をすれば「現場主義」となるのだが、これだけ手間をかけてもらって”素人”ってのも…ねぇ。
といいつつ、「自分はこれでいい」って思いもあったりする。
今から理論を学んでいる人と同じになる必要もないし、完璧になりたいと言う欲も無い。
もちろん、出来る人に対して”嫉妬心”はいつも絶えないが。
真宗カウンセリングを研究するのではなく、真宗カウンセリングを体感した「わたし」として、その時々の関わりをしていく…なんとなく、そういうイメージは出来上がっていたりする。
もちろん、その「真宗カウンセリングとはなにか?」と言う部分にゴールは無く、学びと実践で体感していくだけだ。
学術的に後進に引き継いでいくと言う大事な役割もあるのだろうが、それは他の方に任せて、私は姿を見ていってもらうしかないかな、と。
もし、こういう(甘えた?)考え方じゃ駄目だとお叱りもあるかもしれないし、そういう要請があればそのときに動くかもしれないけど、こんなやつもいてもいいんじゃないかな。
(だって、みんな賢くて…って言う感覚があるのは卑屈ってことかな)
と、だいぶ話題がそれてきたけど、総会を通じていろんな味わいがありましたってことで。
こうやって書き込んでみて、卑屈って言葉がいろんな面でいまのわたしにぴったりくるなぁ。
今回の総会は味わい部会ものだったなと思いました。新たな顔ぶれもあり、これからが楽しみだという感じもありましたし・・・
こうして、研究会を続けている自分の気持ちなんかも味わいながら・・・