生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と19の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

ちょっと振り返って・・・

2009年12月26日 19時16分46秒 | 大学評価・学位授与機構
今回の論文試験について、ちょっと思うことがある。

「趣旨のわからない試験問題」についてである。

私自身、社会人としては、学位の数や資格の数、あるいは取得した単位の数は多い部類に入ると思っている。その都度都度、試験がある訳で、すべてについて、100%理解して書いているわけではない。

マークシート式や選択問題は対象外だが、筆記試験、特に大学院の入試は自分の知らないテーマで書かざるを得ないこともあった。

例えば、産業能率大学大学院では「知らないこと」について問われたし、明星大学大学院の場合は、畑違いの「教育の問題」でそれについて書かねばならない。武蔵野大学大学院なんぞ、「宗教の問題」だった。

はっきり言って、用語や情報についてなら、私は他の受験者の足元に及ばないだろう。しかも、書き方も「このブログと大差ない」ものであり、読んでいる人に「苦痛」を与える「長文」となる。

他の学位の試験もそうだが、専門分野でもないのに、論文試験が合格するのは「論文試験は内容ではなく、書きぶりが評価される」という信念を持って、堂々と書いているからだと思っている。

前も、書いたが「論文の試験官」の方の話では、内容よりも「いかに書いているかを見る」とのこと。それでなければ、たまたま知らない問題がでた人、あるいは偶然知っている問題がでた人で不公平感がでるし、合否が運次第となってしまう。

だから、知らない内容でも「自分の想像」で、出題者の問いかけはこのようなものではないかと仮定し、それを最初に書いてしまう。そして、それについての「問題点」「課題」「影響」「解決策」等を挙げていく。なんとなくQCサークルの「テーマの選定」~「定着化」とよく似ているかもしれない。

万が一、テーマの選定=質問の趣旨を捉えそこなったとしても、自分が設定したテーマについて問題を取り上げ解決が論理的に導ければ0点にはならないだろう。なんせ、白紙に対しては配点したくてもできませんから・・・

論文試験は修士論文を始めとする院生として書き物ができるのかという能力判定の意味もあるのだが、他の試験でも「どれだけ勉強しているか知りたい」という出題者のニーズを満たすように書けばよい。

だから、知らない、出題の意図がわからないと諦めることなく、何とか、自分の能力の証明を記して欲しい。(1000字)
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「とめぞうくん」が来た!

2009年12月26日 06時54分06秒 | 明星大学大学院
同期のキャンディさんが「学生生活3周年に突入」する仲間の存在を教えてくれたのだが、まだ「初稿」しか出していない私の元に、「修士論文提出許可証」と「修士論文提出用のバインダー」が到着した。

私の意思とは関係なく、ちゃくちゃくと周りだけがスピーティに進展している・・・


たぐい稀なる「強烈なプレッシャー」に押しつぶされそうである・・・


さて、この「修士論文提出用のバインダー」であるが、明星大学院を修了した、私のあこがれの先輩がとある本の中で「とめぞうくん」と言っていた。昔は「とめぞうくん」がくれば一人前!と思っていたが、なんと、大学の購買部で簡単に購入できることを最近知った・・・

とはいえ、この正月を一生懸命頑張れば、あこがれの先輩と同じ学位を取得できるところまできたのは驚きである。それ以前に、本でしか知らなかった方なのに、分をわきまえずとある会で話を聴いていただいて、いつの間にか勝手に同じ大学院に行って、今では年賀状もお出しするようになっているのが、人の縁の摩訶不思議なところである。

ここでふと思うのが私の大嫌いな「人脈」という言葉である。今回の論文でも書くのだが、大学院に行く理由に「人脈を作るため」というのが上位に出てくる。なんだか、学校に行くのも打算的な気がして、そんなので学習できるのか?と思ってしまう。ましてや、名刺集めみたいなことして、それが将来どうなるの?と考える。本当に人脈になって欲しいのなら、自分自身、相手から認められなければならなのに、その水準にないにも関わらず、一方的に知っているだけで「人脈」と言ってしまうことにかなりの違和感を感じる。

「人脈」って、あわよくば、仕事やプライベートに相手を活用しようという打算的な面が目に付き、好きじゃないのです。

というより、大学⇒大学院ってやってきて、そんな打算的にならなくても、自分で前向きにやってれば勝手に「人の輪」っていうのはできるのです。グループワークとか、共同作業があるし、飲み会も懇親会もあるわけだから、積極的に参加して情報を発信していれば、出会うべき人とは、必ず出会うように将来が仕組まれていると思っています。

先の先輩の話の続きだが、先輩と知り合えたのも幸運だが、先輩のご主人と知り合えたのも、私のとっては更に幸運であった。博学で知識が豊富だから話していて楽しい。しかも、理系の視点で語ってくるので、自分にはない発想が新鮮である。

このように、人を介して、あるいは学校、その他もろもろの場を介して、自分が話していて楽しいと思える人が増えることこそ、人生のすばらしい点ではないだろうか?

「人脈、人脈!」とガツガツしているより、自分からアクションを起こして「イベント」や「学校」等人の集まるところに出向いて、一緒にいて楽しい人と出会えることを夢見る方が私には向いているのかもしれない。というより、もともと人見知りするタイプなので、そういう波長の合う人でないと、拒絶反応が出て場が持たないと思うから。
コメント (2)
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偏食とクリスマスケーキ!

2009年12月26日 06時24分11秒 | ちょっと立ち止まって・・・
子どもの性格について、奇妙なところは親に似る。

そう、偏食なのである。クリスマスケーキは市販のケーキとすることができなかった。長男はチョコレートが食べれない。次男はチョコレートケーキが大好物。

ちなみに、12/24が次男の誕生日のため、ケーキは次男の意向が優先される。よって、家内が手作りで3/4のみチョコレートケーキというのをこしらえた。

見ていただいたらわかるように、左後1/4が普通のケーキなのだが、イチゴが載っていない。そう、長男はイチゴも食べれない・・・

父親も偏食だから子どもにとやかく言うことはできない。しかし、その昔は「何も食べない子ども」だったから、かなり進歩したと思う。

一方で、次男は父親が食べれない「わさび」や「からし」も食べるのだから、それこそ脅威である。

まあ、偏食、偏食というなかれ。南の島の住民が「タロイモ」中心の生活をしていて、「偏食だ!」と言う人もいないだろう。ましてや「わさび」や「からし」の習慣のない国の人に対して「わさびも食べれないのか!」って言う人もおるまい。

今の日本の食文化の方が異常なのである。金さえ払えば世界各国の食材が、季節を問わず入手できる。一般的な家庭の食事でも、昔の貴族を超えるような豊富な食事をしている。

「芋粥」という読み物があったと思う。たしか、下級役人が「芋粥を食べたい」というストーリーだったと思うが、その程度の生活である。また、京都という場所の貴族が、新鮮な刺身を食べれるはずもなく、豚肉も牛肉も食べていたわけじゃない。

常に飢饉や飢餓と隣り合わせの生活で「30種類の食材を食べましょう!」なんてムリに決まっている。そういう過酷な食生活を我らが先祖は耐えてきた。

無論、ジャンクフードに頼る生活はNGだと思うが、全ての食材を食べることができない人間が否定される社会もまた許されるべきものではないと思う。ましてや、放課後、見せしめのごとく、給食を食べれない子どもがお仕置きをされるのも、私は大嫌いである。

栄養バランスに気をつけなければならない「日本」。一方で、生きていくうえで必要なカロリーさえ充足できない国があることにも、ジレンマを感じてしまうわけで・・・なんか、うまくまとめることができない。。。
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インターコンチネンタルホテルにて

2009年12月26日 06時20分25秒 | その他
30周年だったのですね・・・

私なんか、まだ、銀行員生活20年にも届いてないもんな~
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復活の1杯!

2009年12月26日 05時58分18秒 | ちょっと立ち止まって・・・
まだ風邪は復調していない。昨日お医者様に行ったところ、なんと、前回より「薬の種類が増えた」のであった!

しかし、油物を受け付けない旨説明したところ、それ用の薬も入れてくださった。都合5日分。これで治らないと、もう明日はない。

ちなみに家内は、昨夜は「マッチのディナーショー」で夕食はなかった。噂によると(というか、家内からの報告だと)500人ぐらい来ていたそうである。1人45,000円だから、単純計算すると・・・凄い額である。

話し戻って、夕食がないので家に帰ってから食事をしようと思っていたのだが、あまりの空腹に耐え切れず、心のふるさとともいえる場所へ行った。

そう、「吉野家」である。

現在、他の牛丼店が大幅に価格のディスカウントを行っているのであるが、吉野家の牛丼380円が、無性に食べたくなったのだ。

最悪、胃が受け付けなければ戻せばいいと腹をくくって食べた。うまかった!しかも、薬が効いたのか、普通に食べて現在に至っている。

あれだけ、こってりしたものが食べれたのだから、これからも食事は大丈夫だろう。さすがに、一時期は年間100杯以上食べていた牛丼マニアだけあって、体になじんでいるのかもしれない。

次回は両親からもらった株主優待券を使って食べることとしよう。やはり、常に携行しておかないと、とっさの時に使えない・・・
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