家に帰ると「生涯学習の社会学」(赤尾勝己著)が楽天ブックスから届いていた。
図書館で借りていた参考文献なのだが、返却してしまったので急遽購入した。この先生、実は、私の「資格社会」に反対する立場であり、いわば「敵」。その先生の本を3,990円も支払って購入するのだから、敵に塩を送るようなものである。
ただ、やはり読んでいてかなり詳しく研究されているのがわかる良書である。「資格社会は学歴を資格に置き換えただけじゃないか!」というのが先生の主張の概略なのだが、私はいい意味での学歴社会は歓迎しているので、当然資格社会も賛成という立場である。
悪い意味での学歴社会は「学歴偏重」の融通の利かない社会とでも言えばいいのだろうか。いい意味での学歴社会は、大学や大学院といった高度教育機関において、学習を続け、それが正当に評価される社会と思っている。同じくいい意味での資格社会とは、大学や大学院、あるいはその他の教育機関で学習するか、自己啓発において能力を向上させ、社会的に評価される資格を取得し、それが認められる社会だと思っている。
指導教官にも賛同していただいているのだが、「何故、学習することが否定されなければいけないのか」というのが、私の問題意識のスタートラインである。「資格マニア」「資格オタク」と言った差別やあざけりの言葉。また、夜間大学院に行くことへの「やっかみ」や「ねたみ」。雑誌のアンケートでも「職場に大学院に行くことを隠している」という回答者がいること自体、「何故?」という気持ちになるのだ。何故、他者が学習することに対して、かくも否定的に反応してしまうのだろうか?
学習した成果として資格を取得すると、周囲の人が「よく頑張ったね!」と賞賛してくれるような社会。あるいは、「私、大学院に行っているんです」と言えば、周りが仕事に融通をつけてくれるような配慮のある社会。(実は、平成18年4月に「労働時間等設定改善指針」が厚生労働省から出ており、この中で、事業主等が構ずるべき労働時間設定の改善措置として「自発的な職業能力開発をはかる労働者:有給教育訓練休暇・長期教育訓練休暇等の付与、始業・就業時刻の変更、時間外労働の制限等を行うこと」が明記されており、社会人が大学院に通うための時間的配慮がなされるはずなのですが、それ以前に、周囲が自発的にサポートする社会を理想としている)
何も「○○の資格を取得したら課長」「MBAを取得したら部長」にしろなんて言ってはいない。そういう使い方しか想像できないから、「資格社会や学歴社会は悪だ」って話になる。
経理の仕事がしたい人が、頑張って簿記の資格を取得して、ジョブ公募をしたら、面接ぐらいはしてあげて、場合によったら経理部に転勤させるくらいの人事制度が一般化してくればいいなと思うのである。そういう社会になれば、部門ごとに専門資格を保有するスペシャリストが集結することとなる。実際、ある企業の事例では人事部門に「産業カウンセラー部隊」ができたりしているし、ビジネス・キャリア制度における資格を全社各部門を挙げて取得している事例もある。資格が部門を跨いだ異動を実現する例であり、また、同じ部門で専門性を伸ばしていくケースともいえる。
学歴社会も、日本のような学校歴社会になってしまうと弊害の部分が目立ってしまうが、大学ならどこを出ても同様に評価している国もある。むしろ、大学というより、何の学位を保有しているかが評価される。
私が実践して証明しているように、社会人でも通信制大学や夜間大学院、通信制大学院、学位授与機構を使って学位を取得することは十分可能である。自己のスキルアップや専門性拡張の証明として、学位を活用することも悪くないと考える。私にとって、最初の大卒だけは両親の支援によるものであったが、それ以後の学歴は自己啓発の一環として自分の所得の範囲で取得したものである。他の方々が「ゴルフ」等レジャーにいそしんでいるのと同様に、私もライフワークの一環でやっているだけなので、なんら変わりがない。
日本の余暇活動について、従来型のレジャーで考えるなら、外食(7,200万人)や国内観光旅行(5,700万人)、ドライブ(5,130万人)、カラオケ(4,310万人)、ビデオ鑑賞(4,240万人)の上位5項目と比べて、「検定」「社会人大学・市民大学など」は、それぞれ、参加人口410万人、90万人と、まだ、それほど一般化されていない。とはいえ、少しずつではあるが、資格や大学を目指す人が増えてくれば、社会的にある程度の認知をえるかもしれぬ。