以前、読んだ本なのだが、書架から出して読み直してみた。
やはり、好きにはなれない1冊。なぜなら、この本を書いている方は「慶應通教」の出身者で、しかも、その後、慶應義塾大学大学院を出るほどの人物。本の内容は正論すぎるため、反論することはできない。まっとうな大学通信教育の履歴であり、まさにスタディガイドである。
第1章から飛ばしている。「精神論だけでは卒業できない」という一文から始まり、「序盤(入学後約2年以内)に退学する人」「中盤に退学する人」「終盤(卒論に入ってから)に退学する人」と、いとも冷静に分析している。それはそれで参考になるのかもしれないが、辞める人の傾向と分析を丁寧にされても、私はあまりうれしくない。
それに、ことさら、大学院を難しいところに祭り上げて、恐怖心を煽っている。せっかく、大学通教を卒業したなら、大学院という進路を夢見てもいいはずだ。しかし、p.82には「修士課程であれば、所定の単位を修得したうえで、修士論文を提出し、面接試験に合格しなければならない。修士課程は2年とされているが、入学してからの勉強は、かなりハードである。1年次には、6~7科目を履修することになるが、そうした授業はほとんど英語論文や専門書の輪読である。少人数のこともあり、順番はすぐにまわってくる。」
こんな文章を読んで、大学院修士課程に行きたいと思う学生がいるだろうか・・・無論、そういう教育を行っている大学院もあるだろう。しかし、私の行った大学院なら、英語抜きでも修了できる。まあ、将来のために、意識的に英語の文献も読んでいるが、遅々としてすすまず、苦労しているのだが、無くても修了できる大学院は掃いて捨てるほどある。
私のブログのように、あまりに悲壮感が無さ過ぎるのも罪作りかもしれないのだが、この本のように、困難極まりない聖地として、特別視するのも、逆に大罪ではないかと訝っている。
博士課程ではなく、修士課程の話なのである。修士課程で修了生ゼロの大学院って、そんなにあるのだろうか?修了している人がいるのなら、きっと、あなたにもできるはずである。入学できれば、条件はそう大差はないのだから。
とはいえ、私の知らない見方からの大学通信教育がかかれているので、それなりには興味の湧く1冊ではあるのだが。
やはり、好きにはなれない1冊。なぜなら、この本を書いている方は「慶應通教」の出身者で、しかも、その後、慶應義塾大学大学院を出るほどの人物。本の内容は正論すぎるため、反論することはできない。まっとうな大学通信教育の履歴であり、まさにスタディガイドである。
第1章から飛ばしている。「精神論だけでは卒業できない」という一文から始まり、「序盤(入学後約2年以内)に退学する人」「中盤に退学する人」「終盤(卒論に入ってから)に退学する人」と、いとも冷静に分析している。それはそれで参考になるのかもしれないが、辞める人の傾向と分析を丁寧にされても、私はあまりうれしくない。
それに、ことさら、大学院を難しいところに祭り上げて、恐怖心を煽っている。せっかく、大学通教を卒業したなら、大学院という進路を夢見てもいいはずだ。しかし、p.82には「修士課程であれば、所定の単位を修得したうえで、修士論文を提出し、面接試験に合格しなければならない。修士課程は2年とされているが、入学してからの勉強は、かなりハードである。1年次には、6~7科目を履修することになるが、そうした授業はほとんど英語論文や専門書の輪読である。少人数のこともあり、順番はすぐにまわってくる。」
こんな文章を読んで、大学院修士課程に行きたいと思う学生がいるだろうか・・・無論、そういう教育を行っている大学院もあるだろう。しかし、私の行った大学院なら、英語抜きでも修了できる。まあ、将来のために、意識的に英語の文献も読んでいるが、遅々としてすすまず、苦労しているのだが、無くても修了できる大学院は掃いて捨てるほどある。
私のブログのように、あまりに悲壮感が無さ過ぎるのも罪作りかもしれないのだが、この本のように、困難極まりない聖地として、特別視するのも、逆に大罪ではないかと訝っている。
博士課程ではなく、修士課程の話なのである。修士課程で修了生ゼロの大学院って、そんなにあるのだろうか?修了している人がいるのなら、きっと、あなたにもできるはずである。入学できれば、条件はそう大差はないのだから。
とはいえ、私の知らない見方からの大学通信教育がかかれているので、それなりには興味の湧く1冊ではあるのだが。