生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

手付かずの修士論文と・・・

2013年06月07日 04時50分15秒 | ちょっと立ち止まって・・・
修士論文作成の道は遠く、その壁は極めて高い・・・

文献を漁るだけで、文字数が一向に増えないことを危惧している。そんな中、昨日は「英語が無くても修士になれる」といった風な記事を書いてしまったことを、朝の4時前から振り返っている。確かに、今まで修了した3つの大学院(修士課程)では、ほとんど英語は関係なかった。現在所属している4つ目の大学院で、初めて入試で英語の問題が出題され、英語で書かれた本を読んでいるくらいである。

ただし・・・最初に入学した大学では「外書講読」という科目があって、それこそ、昨日記した内容の授業が存在した。少人数で、たしか、レスター・C・サローの英語で書かれた原書を読んでいたような思い出がある。よく、「現在の修士は昔の学士」といわれることがあるが、確かに、当時のゼミは今の院生レベルを超越していたように思っている。

とはいえ、そもそも、学部の授業と大学院の授業は「求めるもの」が違う。学部では、基礎をつけ、知識を詰め込む必要もあるが、院では、知識をつけることよりも、調査をし、考察をし、成果物を完成させることに主眼が置かれる。そもそも、みんな集まって「輪読」することって、大学院レベルの学習なのだろうか?

その昔、偉大な教授について、そういう授業を行っていたという記録は、いろいろな書籍で垣間見ることができる。イメージとしては、文学系の研究科。文献を読み解くことが、研究の第一歩というものである。

しかし、現在のように研究テーマが多様化した現状では、全員が一同に集まって、輪読するということが、恒常的に行われているとは思えない。輪読する原書や古典の内容が、全員に共通する研究課題となるか微妙だし、ましては無関係の学生にとっては、時間をかけて輪読することは「人生のロスタイム」になりかねない。特に、社会人大学院生は、時間的な余裕はなく、仕事との兼ね合いでギリギリの状況で学んでいる。悠長に輪読している時間はないのだ。

加えて、英語の試験がない以上、輪読についていけない学生は、当然、出現する。そんな方が輪読当番になった場合、稚拙な訳を聞くだけ時間の無駄である。あるいは、当番になった日には、仕事にかこつけて、休んでしまうかもしれない。そんな場合、発表者の無い授業は、無意味に空転する。

いろいろ考えることはあるが、それより先に、自分の課題に取り組まないと・・・
コメント (2)
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