きっかけは可愛かったから・・

中国語を始めたきっかけは発音が可愛かったから。あれから33年。寄り道もしたけどやっぱり中国語に戻ってくるんだよね

道後温泉 NO.2(坊っちゃんの間と又新殿)

2017年09月20日 | 通訳ガイド(四国)
おはようございます。

今日もいい天気でどこかへ旅行に行きたくなる気分ですが、生憎、本日は医療通訳のお仕事が入っております




今日は、道後温泉の続きです。


思った以上に松山城に時間を費やしてしまったので、だいぶ間があいてしまいました


*坊っちゃんの間

中国では夏目漱石は有名?

ガイドや通訳をしてる中で、今まで夏目漱石の話題になったことはありませんが、魯迅が夏目漱石の作品を翻訳しているんですよね。それを実際、読んだことがあって、夏目漱石を知ってるよ~問人はどれくらいいるのでしょうか・・

私も魯迅の作品をたぶん読んだことある(大学で)と思うのですが、全く記憶にありません
文学という分野に全く興味がないもので・・

ただ、坊っちゃんの間を説明するときには魯迅を話に出すと知らなくても親近感はわくかもしれませんね


↓坊っちゃんの間です。1895年に松山に赴任した夏目漱石。その年の秋、正岡子規と利用したとされるお部屋です。



↓坊っちゃんの間からの眺めです



*又新殿

中国人観光客にはこちらの方が食いついてきそうです。天皇家のお話とか興味深く聞いてくれるので・・

又新殿ではガイドさんがいて案内してくれます。10分ほどの見学時間です。

なぜか、写真を全く撮っていなかったので、写真無しの説明のみとなります。

又新殿は1899年に建築された日本で唯一の皇室専用浴室です。
桃山時代の建築様式を模して造られており、豪華絢爛な造りとなっています。
木材、石材ともに上質な材料が使われています。


まず一階へ案内されます。

一階には洞の間、御湯殿、手洗いがあります。

洞の間・・・入浴するために浴衣に着替えるお部屋です。白くて薄い絹の浴衣を着られたそうです。

御湯殿・・・湯船です。石は香川県産の庵治石と呼ばれる、御影石の中での最上のものを使用しています。浴室として使われたのはわずか10回。1952年の常陸宮様の利用以降は使われていません。
当時は、湯量がまだ少なくて、宿泊されていた旅館に温泉が供給されていなかったので、又新殿まで来て入浴されたんですが、その後、湯量が増加し、旅館で入浴できるようになったため、又新殿は使われなくなったんだそうです。

天皇では昭和天皇が一回利用、大正天皇、昭和天皇が皇太子の時に2回来られており、後の7回は皇族の方が利用されました。

湯船は階段を下がる形になっていますが、当時は自噴だったため高いところまで汲み上げることがなきなくて、湯口の高さを地表の高さに合わせる必要があったそです。そのため、地面を深く掘って階段で下りる形となったそうです。

浴室の周りには道後温泉を最初に発見したと伝わる白鷺が彫られています。


手洗い・・・畳が敷かれています。便器(?)は黒漆が塗られています。トイレの下には箱がおかれており、その箱には砂が敷かれています。
用を足された後、その箱を引き出して便を調べて健康状態を確認したんだそうです。
ただ、入浴だけ済まされたようで、このトイレは使われなかったそうです。


2階へ上がります。

御成門・・・今使われている本館の玄関のちょうど反対側にこの門はあります。皇室のかたが来られた時のみ使用されました。


前室・・・白鷺の絵が銀箔地の襖に描かれています。銀箔は酸化してしまっていて今は黒くなっています。

御居間・・・天皇以外の皇族の方の休憩所です。二畳台と呼ばれる台の上に火鉢や座布団が置かれています。畳も最高級のもの、縁も高麗縁が使われています。襖は金箔地。天井は桐柾板の二枚重ねで槍で突いても貫けないのだそうです。
襖が破れたままになっていますが、これは国の重要文化財に指定されているので国の許可なく修復はできないからだそうですが、近く修復工事が行われるそうです。


玉座の間・・・天皇専用のお部屋です。壁・襖は金箔地。桐が描かれていますが、桐は皇室に縁があるものしか使うことができない高貴な模様だったそうです。
左手には武者隠しの間があり、警備の人が控えていたそうです。畳は最高級のもので、繧繝縁(うんげんべり)という縁が使われています。
また、天皇が座られたときに真ん中に畳の縁がこないように、畳の幅をせまくして、5枚敷いてあります。通常サイズだと4枚なのですが、ちょうど椅子の真ん中に縁がきてしまうそうです。(→すごい気配りですね~)



以上が又新殿の案内でした。


話を聞くのに必死で写真を撮ってなかったなんて



↓こちらが中国語の案内板です。たぶん、中国人が見学にきたらこれを渡すのだと思います。
(忙しい中、急いで撮らせて頂いたので綺麗に撮れてませんが)




以上、写真のない見にくいものとなってしまいましたが、初めて松山に行くガイドさんの参考になれば嬉しいです😊




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松山城 NO.6(天守出口から二の丸庭園)

2017年09月20日 | 通訳ガイド(四国)
本日2回目の投稿


松山城を終わらせちゃいます!


松山城本壇図です



天守閣の見学を終えると、内門、仕切門を通って、再度二ノ門、一ノ門を通り出口となります。


内門をでると目の前に仕切門内塀が見えます



仕切門です



仕切門の案内板です



仕切門を出ると北東に天神櫓があります



天神櫓の案内板です。久松家の先祖である菅原道真の像を安置し、城を安全を祈った、とあります。


よく見るとお供えものがあります


天神櫓のほうから見た二ノ門(左)と三ノ門(右)です



本壇入口までもどってきました。

振り返って再度天守を眺めます。

左手に紫竹門があります。裏門の乾門へ行くことができます。


紫竹門の案内板です。



紫竹門から乾門まで行けたようですが、昼からの仕事の時間が迫ってきていたので、ここで大手門跡まで戻り二の丸へと向かいました

大手門跡から二の丸までの道は「黒門口登城道」とよばれています。
案内板です。下り15分、上り20分。確かに時間的にはそれくらいだったと思います。



黒門口登城道です。これ、まだスタートしたところなので、明るく感じますがもう少しいくと大きな木に囲まれ、ほとんど人は通らずシーンとしています。途中で引き返してロープウェイで戻ろうかと思ったくらい心細くなります



不安いっぱいの下山(←大げさか
ようやく二の丸庭園が見えてきました



二の丸御殿は奥御殿と表御殿に分かれています。表御殿は藩の中枢としての役割を果たす場所で、奥御殿は藩主の家族の住居だったそうです。

二の丸御殿の模型です



現在の二の丸(庭園)の案内図です


奥御殿遺構の間取りを流水園で表しています。
部屋の部分を水面と砂利で、庭の部分を芝生を植えているとのことです。


大井戸です。井戸ときいて絶対に想像しない大きさの井戸ですね


↓案内ぶんです。この大井戸は加藤嘉明当時の井戸で、防火のための井戸であり、また二の丸で暮らす人々の生活用水としても使用されていたようです。



今でも1日3cm~5cm位、湧き出てくるそうです
でも、一定量を保つように、水が増えてきたらポンプで池へ送るそうです。


二の丸庭園は恋人の聖地としても有名みたいですね
「恋人の聖地」とは、NPO法人地域活性化支援センターによって恋人たちが訪れるロマンチックな場所として選ばれた場所なんだそうです。
てっきり、勝手に名付けたのかと思ってました

発掘調査の際にロシアの金貨が見つかり、その金貨には二人の名前が刻まれていたそうです。その名前がロシア人男性捕虜と日本人の女性看護師だったんですって。国境を越えた恋の証ではないかと考えられているようです。
また、結婚式の前撮りにもよく使われることもあって、「恋人の聖地」に選ばれたんですね

↓ちょうど結婚式の写真を撮ってらっしゃとので、断りを入れて、1枚撮らせて頂きました



こんな着物姿をみたら外国人なんて喜びそうですよね


京都では欧米人が浴衣を着ている台湾観光客と写真を撮っていますが、その光景をみるとすごーい違和感感じるのは私だけでしょうか?



さく~っと二の丸庭園をまとめてみましたが、松山城を見た後だと物足りなさを感じます。


まぁ、庭園ってだけなので・・


ガイドとしてお客様を連れて行く機会がほとんどないんじゃないでしょうか・・


それでも、下見をしておくといざというときに役立ちますからね



数日にわけてまとめてましたが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。



さて、松山城についてもまとめたことだし、来月予定されている仕事の準備をそろそろ始めようと思います。


って、まだなんのスケジュールもとどいてないんですけどね

団体なので、バス車内でしゃべることでも準備しておこうと思います



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松山城 NO.5(天守内部)

2017年09月20日 | 通訳ガイド(四国)
おはようございます。

最近、バラバラになって色分けしていたレゴを作品ごとに仕分けしていて、これが思った以上に大変
毎日、一作品分の部品を集めるのが精いっぱい。

長男と次男が小さいころから集めたレゴブロック。一体、何種類の作品があるのやら・・
しかも、なくなってる部品もあるし
まだまだ終わりそうにもないです。今年中には終わらせたいけど・・



さて、今日は天守内部です。

写真を撮ってはだめだと思っていたので、最初、全然写真を撮ってなくて出口に近づいたところで撮影OKということに気付き、急いで戻って記憶にとどめておきたいところだけ写真におさめてきました。

まず、天守地下で靴をロッカーに預けます。スリッパに履き替え、急な階段を上り、天守一階へ上がります。
天守閣内の狭くて急な階段は敵を一人ずつしか登らせない工夫だそうです。


天守から、内門、玄関多門櫓を通り、北隅櫓へと行きます。


人様のボランティアガイドさんの案内をちょこちょこ盗み聞きしています

一緒にガイドが回らない場合、QRコードをかざすと多言語の案内がみられます。ただ、毎回、毎回、QRコードをかざさないといけないようです。
正直、面倒です。入口で一階やれば、あとは番号を追うようなシステムにしてもらえたらいいのに・・


北隅櫓に鎧があります。ボランティアガイドさんによると、

鎧自体に価値はそんなにないそうですが、写真をみていただければわかりますが、背中のところに旗をさすことができるようになっていて、その戦い用の鎧としては珍しいんだそうです。


それにしても、旗さしながら戦うって、私なら後ろがうっとおしくて集中できない気がするのですが・・


十間廊下に行きます。


こちらでは、刀の模型が置かれており、持ってみることができます。
るろうに剣心の映画では、何人も切っていますが、実際は最多でも5人くらいしかきれなかったようです。


そして↓この刀ですが、高橋貞次が作った刀です。


高橋貞次は刀匠においては人間国宝第一号です。この写真の二刀は龍が彫られていますが、彼しかできないくらいのものだそうです。
また、皇后美智子様が結婚するときに守り刀を造ったんだそうです。

写真には写っていませんが、左にもう一つ刀が展示されています。それは江戸時代の刀だそうです。

奥へ進むと鎧があります。
三代藩主 松平定長の鎧です。ただ、彼の時代は戦争のない平和な時代だったのでおの鎧は使われなかったそうです。



南隅櫓の内部です



多門櫓内部です。中央は内裏雛図、左の黒い箱は長持。久松家が使っていたもので、寝具や衣類を収納する箱です。
左の家紋は久松家の星梅鉢、右の家紋は、徳川家の三つ葉葵です。




久松家と徳川家ってどんな関係?

松山城の天守には徳川家の三つ葉葵が使われています


3代目城主の松平定行の祖母は、徳川家康の母でもあります。つまり、定行の父と家康が異父兄弟になるわけです。
定行の祖母、於大の方(伝通院)は最初、松平広忠と結婚し、家康を生みました。
しかし、兄が松平広忠に反対だった織田家についたため、広忠は怒り、於大の方を離縁させたのです。
その後、久松家に嫁ぎました。

3代目城主の松平定行の本名は、久松定行ですが、家康より「松平」姓を賜り、その後は松平を名乗っていました。
というわけで、松平家と徳川家康は血縁関係にあり、松山城にも三つ葉葵の使用を許されたようです。


歴代城主の家紋は以下です

1代目城主の加藤家家紋、蛇目
2代目城主の蒲生家家紋、左三巴
3代目以降の松平家家紋、三つ葉葵
そして、もう一つが松平家の旧姓久松家家紋の星梅鉢(*17代城主松平勝成は明治になったときに天皇の命により旧姓の久松に戻し、最後の城主は久松定昭です)

↓歴代城主の家紋(松山城HPより)



小天へと進みます。このあたりからどこの内部を見学してるのかわからなくなってきました

侍の似顔絵です。QRコードを読み込んでみました


中国語版です



火事頭巾です。葵紋が入っています


鎧です。「012 鎧」という案内があります。QRコードを読み取るとこの説明を中心に多言語で見ることができます。この写真では左した「妙」と書かれた書の前にQRコードがあります。



江戸時代に使われていたものです。刀用の箪笥もあったんですね~



ぐるっと一周して天守に戻ってきます。そこには甲冑の装着体験ができます
装着の手順も載せています。(それにしても、物の名前が・・ 小難しい


天守2階です。


案内板です


中国語版です



天守というのは、戦いの時の要塞です。戦いの時に天守に入り籠城するのです。なので、普段は城主やその側近らが足を踏み入れることはありません。普段過ごすところではないので、通常、トイレや炊事場もなく、床は板張りで天井板もありません。
しかし、松山城は一階、二階、三階とも天井板があり、畳が敷けるようになっています。さらには床の間もあり、襖を入れるための敷居を設けています。天守の居室化らしいですが、これは平和な時代だったからではないかと言われているそうです。


天守閣の内部・・ 内部・・

うぅぅ どうしても、大阪城しか思い出せない・・
大阪城の天守閣は今は博物館なので、比べられない・・


広島城ってそういえばこの前行ったな~


ってあそこも博物館になってたわ


天守からの眺め


隣にいたボランティアガイドさんがロシア兵の話をしていたので、調べてみました。

以下は松山市HPより

松山には日露戦争が始まった1904年(明治37年)に全国初の捕虜収容所が設けられ、捕虜が収容されました。松山が捕虜収容所となった理由としては諸説ありますが、高浜が瀬戸内海のおだやかな港であり、輸送に便利なこと、気候が温暖であること、港から街まで鉄道があったことなどが挙げられます。
捕虜は公会堂や寺院に収容され、かつて松山市文京町にあった第22連隊城北練兵場(現愛媛大学城北キャンパス、松山大学文京キャンパス、松山赤十字病院、松山市立東中学校周辺)には26棟の病棟が建てられました。
 110数回に及ぶ捕虜輸送船により松山に収容された捕虜の数は、延べ6,000人に達したと言われ、多い時には4,000名を超える捕虜が松山にいたと言われています。(当時の松山市の人口は約30,000人)
捕虜兵の博愛処遇は県民に徹底されており、外出は自由で温泉、観劇等を楽しみました。その噂はロシア兵の間で広まり、ロシア兵が投降するときには、“マツヤマ”と叫んだとも伝えられています。
 捕虜の中で、負傷し懸命の看護の甲斐なく異国の地で生涯を終えたワシリー・ボイスマン大佐、以下捕虜97名を埋葬しているのがロシア兵墓地です。墓碑は祖国を望むように北向きに建てられています。なお、埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地におよんでおり、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれています。




天守内部にはいろんなものが展示されています。

お城そのものに興味はあっても展示物までは興味がない中国人観光客。
団体ツアーの場合は無理かもしれませんが、FITのお客様だったら一緒に廻ることがほとんどなので、興味をもってもらえるように案内できればと思います



以上で天守内部は終了です。







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