こんにちは~
通訳案内士の方は秋の行楽シーズンに向けて忙しくなってきているのでしょうか・・
私は今月はほとんど依頼がございません
キャンセルになった仕事がキャンセルじゃなかったら今月はそれだけで満足だったんだけど・・
というわけで、少しでも時間があるうちに下見で行った松山をまとめておきたいと思います。
いつかのためにね
松山城は現存12天守の一つで、愛媛県にはもう一つ、宇和島城もあるんですね・・
私は仕事では彦根城、姫路城しか行ったことがないです
修学旅行で松本城にも行ったことありますが、黒壁だったという記憶しかありません
通訳ガイドとしてはまだまだですね
↓松山城の全体図です(HPより抜粋)
天守閣は地上132mのところにあります。
でも、安心してください
ロープウェイやリフトがああります
もちろん、歩いて行くことも可能ですが、かなりハードです。
ちょっとしたトレッキングだと思っていったほうがいいです。
まぁ、ツアー客を連れている場合、歩いて行くってことはないと思いますが・・
私は行きはロープウェイを利用しましたが、帰りは大手門跡から黒門口登城道を下って二の丸まで行きました。
林の中の石段を下って行くんですが、二の丸に着いた頃には膝はガクガクしていました
逆に登ってきてる人もいましたが、みんな死にそうになってました(ご苦労様です)
↓駐車場からロープウェイまでは徒歩数分です。 途中、松山城を創設した加藤義明の銅像があります。
(google mapより)
*加藤義明
加藤義明は元々豊臣秀吉の家臣だった人です。
柴田勝家との賤ケ岳の戦いで活躍し、七本槍の一人に数えられています。
秀吉の死後、義明は黒田長政や池田輝政6武将と共に、石田三成の暗殺を企て、三成を滋賀県の佐和山城に追いやり謹慎させました。
その後、徳川に従軍、関ケ原の戦いでも石田三成の軍と戦いました。その功績が認められ伊予で20万石となり、家康に勝山に城を築く許可をもらい、1602年に築城を開始、城下町の整備も始めました。そして、その翌年の1603年に本拠地を勝山に移し、地名を松山としました。
松山城完成前の1627年、会津藩の蒲生氏が領地を削減され(減封)、松山に異動となり、その代わりに加藤義明が43万5500万石がと加増され、会津藩に異動となり、その後、会津の若松城を本拠地としました。
義明は1631年に病気になり、その年の9月に江戸の藩邸で亡くなりました。69歳でした。
松山城は1627年に完成しましたが、義明はそれをみることなく会津に異動となりました。
蒲生忠知が城主となり、二の丸を完成。しかし、蒲生家は参勤交代中に死亡。跡継ぎはいなかったので蒲生家は断絶。
1635年7月、伊勢国(三重県)の松平定行が松山藩主に命じられました。その後松平氏が14代続き明治維新を迎えました。
松山城は1923年、松平氏より松山市に寄贈され、それ以後松山市の所有となっています。
↑これくらい簡単な説明でいいんでしょうか・・
でも、これでも、知らない名前もあるだろうから、もっと簡単にわかりやすく言ったほうがいいのかな~
銅像見て、彼の名前は加藤義明です。彼が松山城の創設者です。しかし、完成を見ずして、会津、今の福島へ異動となりました。
くらいで? 簡単すぎる?
いや、あんまり日本の歴史に興味ないからこれくらいでいいかな?
銅像のとなりの建物がロープウェイ乗り場です。
一階でチケットを買います。FIT客なら販売機で、団体の場合はカウンターで。
(下見の場合、ガイド証を見せれば見学可能です。一応、連れてくる予定はありますか?って聞かれます。私はバカ正直に「ありませんが、そのときのために」と言いました。)
チケットを購入したらエスカレーターで3階に上がります。
エレベーターもあるので、車いすやベビーカーのお客様がいれば利用可能です。
2階は展示室になっています。私が行ったときは現存12天守の写真が飾られていました
ロープウェイ乗り場です
ロープウェイは10分間隔で、約3分で到着します。
約50名乗れるので、バス1台分のお客様は乗れることになります(もちろん、他の一般客もいるので、臨機応変に)
リフトもあります。約6分で到着します。小学生以上じゃないと乗れません。
ロープウェイ山頂(長者が平)です。売店、トイレがあります。
トイレです。洋式もあるし、清潔感もあります
下見で行くならここでボランティアガイドさんと合流して案内してもらえます。
私は生憎、合流できずで、1人で見て周り、時々、人様のガイドさんの話を盗み聞きしておりました
長者ヶ原からが本丸見学です。
見どころ満載の松山城本丸と天守閣は次回でまとめて行きたい思います。
通訳案内士の方は秋の行楽シーズンに向けて忙しくなってきているのでしょうか・・
私は今月はほとんど依頼がございません
キャンセルになった仕事がキャンセルじゃなかったら今月はそれだけで満足だったんだけど・・
というわけで、少しでも時間があるうちに下見で行った松山をまとめておきたいと思います。
いつかのためにね
松山城は現存12天守の一つで、愛媛県にはもう一つ、宇和島城もあるんですね・・
私は仕事では彦根城、姫路城しか行ったことがないです
修学旅行で松本城にも行ったことありますが、黒壁だったという記憶しかありません
通訳ガイドとしてはまだまだですね
↓松山城の全体図です(HPより抜粋)
天守閣は地上132mのところにあります。
でも、安心してください
ロープウェイやリフトがああります
もちろん、歩いて行くことも可能ですが、かなりハードです。
ちょっとしたトレッキングだと思っていったほうがいいです。
まぁ、ツアー客を連れている場合、歩いて行くってことはないと思いますが・・
私は行きはロープウェイを利用しましたが、帰りは大手門跡から黒門口登城道を下って二の丸まで行きました。
林の中の石段を下って行くんですが、二の丸に着いた頃には膝はガクガクしていました
逆に登ってきてる人もいましたが、みんな死にそうになってました(ご苦労様です)
↓駐車場からロープウェイまでは徒歩数分です。 途中、松山城を創設した加藤義明の銅像があります。
(google mapより)
*加藤義明
加藤義明は元々豊臣秀吉の家臣だった人です。
柴田勝家との賤ケ岳の戦いで活躍し、七本槍の一人に数えられています。
秀吉の死後、義明は黒田長政や池田輝政6武将と共に、石田三成の暗殺を企て、三成を滋賀県の佐和山城に追いやり謹慎させました。
その後、徳川に従軍、関ケ原の戦いでも石田三成の軍と戦いました。その功績が認められ伊予で20万石となり、家康に勝山に城を築く許可をもらい、1602年に築城を開始、城下町の整備も始めました。そして、その翌年の1603年に本拠地を勝山に移し、地名を松山としました。
松山城完成前の1627年、会津藩の蒲生氏が領地を削減され(減封)、松山に異動となり、その代わりに加藤義明が43万5500万石がと加増され、会津藩に異動となり、その後、会津の若松城を本拠地としました。
義明は1631年に病気になり、その年の9月に江戸の藩邸で亡くなりました。69歳でした。
松山城は1627年に完成しましたが、義明はそれをみることなく会津に異動となりました。
蒲生忠知が城主となり、二の丸を完成。しかし、蒲生家は参勤交代中に死亡。跡継ぎはいなかったので蒲生家は断絶。
1635年7月、伊勢国(三重県)の松平定行が松山藩主に命じられました。その後松平氏が14代続き明治維新を迎えました。
松山城は1923年、松平氏より松山市に寄贈され、それ以後松山市の所有となっています。
↑これくらい簡単な説明でいいんでしょうか・・
でも、これでも、知らない名前もあるだろうから、もっと簡単にわかりやすく言ったほうがいいのかな~
銅像見て、彼の名前は加藤義明です。彼が松山城の創設者です。しかし、完成を見ずして、会津、今の福島へ異動となりました。
くらいで? 簡単すぎる?
いや、あんまり日本の歴史に興味ないからこれくらいでいいかな?
銅像のとなりの建物がロープウェイ乗り場です。
一階でチケットを買います。FIT客なら販売機で、団体の場合はカウンターで。
(下見の場合、ガイド証を見せれば見学可能です。一応、連れてくる予定はありますか?って聞かれます。私はバカ正直に「ありませんが、そのときのために」と言いました。)
チケットを購入したらエスカレーターで3階に上がります。
エレベーターもあるので、車いすやベビーカーのお客様がいれば利用可能です。
2階は展示室になっています。私が行ったときは現存12天守の写真が飾られていました
ロープウェイ乗り場です
ロープウェイは10分間隔で、約3分で到着します。
約50名乗れるので、バス1台分のお客様は乗れることになります(もちろん、他の一般客もいるので、臨機応変に)
リフトもあります。約6分で到着します。小学生以上じゃないと乗れません。
ロープウェイ山頂(長者が平)です。売店、トイレがあります。
トイレです。洋式もあるし、清潔感もあります
下見で行くならここでボランティアガイドさんと合流して案内してもらえます。
私は生憎、合流できずで、1人で見て周り、時々、人様のガイドさんの話を盗み聞きしておりました
長者ヶ原からが本丸見学です。
見どころ満載の松山城本丸と天守閣は次回でまとめて行きたい思います。
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