先回の『善知鳥』は、謡曲の日本語版、英語版、木版画を組み合わせた特異な本でした。
今回は、能や謡曲を英訳した本、2冊です。
Toyoichirou Nogami『JAPANESE NOH PLAYS』(右、国際観光協会、昭和13年、67頁)
林 なを『謡曲の英訳』(左、昭和60年、自費出版、7冊子(8-12頁))
能楽研究の第一人者、野上豊一郎が、戦前に出した本です。Tourist Lobrary 2とあるように、日本の文化を外国に紹介し、観光振興を図る目的で出版されました。発行は、国鉄内の国際観光協会ですが、日本旅行協会(Japan Travelist Bureau(JTB))が発売を担いました。このTourist Lobraryシリーズの1は生花、3はきもので、40まで発行されています。
この本は、能や謡曲を英語に訳したものではなく、能舞台、能の構成、面と装束、能の分類、能番組の構成、能の鑑賞など、能を実際に見て楽しむために必要な知識、情報をあとめた実用的な書です。
本が出版された昭和13年は、日中戦争がはじまり、日本が無謀な道を進み始めた時期です。その頃、一方では、日本を外国に紹介し、外国からの観光客を増やそうとしていたのです。
本の中に、当時の新聞記事の切り抜きが入っていました。世阿弥生誕五百年祭りに際しての記事です。
裏側には、ヨーロッパの戦況を伝える記事(昭和17年1月26日)が一面に載っています。
私が、この本『JAPANESE NOH PLAYS』を初めて見たのは、25年程前、オーストラリア、某大学の図書館です。おかげで、能について何とか説明をすることができました(^.^)
もう一つの本は、『なをの遺稿 謡曲の英訳』とあるように、これまでのものとはかなり異なった本です。
中には、6種の謡本の英訳物とあとがきが入っています。
『熊野』『竹生島』『安宅』『羽衣』『道成寺』『隅田川』、いずれも極めてポピュラーな演目です。
『熊野』は、著者が一番好きだった謡曲。
著者が描いた挿絵が入っています。端が焦げています。
謡曲本が忠実に英訳されています。
あとがきによると、著者、林なを(明治37年生)さんは、夫君、浩氏とともに、謡曲、能を愛好し、謡曲本を英訳していたそうです。彼女が亡くなった後、家は火災にあいましたが、原稿は奇跡的に消失を免れました。しかし、原稿を本の形にできぬまま、夫君もなくなりました。二人の死後、有志が二人の遺志をくみ、残された原稿をもとに英訳謡曲本を自費出版し、関係先へ配布したのがこの本です。なお、複写原稿は、著者が教鞭をとっていた梅花女子専門学校(現、梅花女子大学)の図書館に保管されています。
謡曲や能の愛好者が亡くなったあと、故人を偲んで能や謡いの会が持たれることはよくあります。また、今回の品のように、能や謡いにまつわる出版物が出されることもあります。
能や謡いには、人の生とかかわる何かがあるように思うのです。