『光悦謡本』です。
本来は稀覯本ですが、これは復刻版です。
当時の物は、しかるべき施設や好書家の所に収まり、私ごときの出る幕はありません(^^;
『光悦謡本』( 實盛・熊野・猩々)、日本古典文学刊行会、昭和47年
ケースの中には、
縦24cm × 横18cm
『光悦謡本』(特製本)を忠実に復刻した3冊が入っています。
右から、『さねもり』、『遊や』、『猩々』。
江戸初期、手書きではなく、版本の謡本が出版されるようになりました。
その中で、綴帖装の古活字本の謡本が出されました。表紙や料紙に雲母で摺模様をあしらい、光悦流の書体の豪華本で、『光悦謡本』とよばれています。一説には、本文を本阿弥光悦が、下絵を俵屋宗達が描いたとも言われています。
『光悦謡本』(復刻)附属の解題(表章氏による)には、『光悦謡本』の要件が次のように述べられれています。
1. 江戸初期刊行の古活字版の謡本であること。
2. 活字書体がいわゆる光悦流(肥痩の差が顕著)であること。
3. 本の大きさが大版の半紙本(竪24センチ、横18センチ)であること。
4. 内容が、江戸初期の観世流の、やや特異な本文・節付を持っていること。
5. 表紙また料紙に雲母(きらら)模様が刷られていること。
『光悦謡本』には、いくつかの種類の物がありますが、とりわけ装幀が美麗で美術価値が高いものが、特製本です。礬砂引の厚い雁皮紙が料紙に使われ、すべてに雲母摺の華麗な地模様が施されています。また、料紙にも薄い色がついています。
復刻版:「猩々」 「遊や」 「さねもり」
料紙の色は、左から、薄紅色(猩々)、薄肌色(遊や)、薄緑色(さねもり)
料紙には、それぞれ、雲母摺で銀色の模様が描かれ、その上に文字が印刷されています。
表紙 「さねもり」
裏表紙
表紙 「遊や」
能「ゆや」は、現在、喜多流が「湯谷」と表記する以外は、すべて、「熊野」と表されます。「遊や」という表記は非常に珍しいです。
裏表紙
表紙 「猩々」
どの冊も、見開き四枚の厚紙を中で折り、糸で綴じてあります。
桃山から江戸へ移る時期に、王朝の雅を謡本に再現したのが『光悦謡本』とも言えるでしょう。実用というより美術価値に重きをおいた品です。
復刻版の『光悦謡本』を眺めながら、どのような人々が、豪華装丁の謡本を手にしていたのか、なぜか気になる遅生でありました(^.^)
「なぜか気になる」って、ちせいさま、そこがいちばん気になるところですよ‼️なんとかしらべて早く教えてくださあい💦
「料紙の美しさ✨文字の流麗さ✨表紙の色の取り合わせ✨✨倒れそう」とチットがキゼツ寸前です⚠️(今日からうちのチット休みに入ったんです。大そうじ手伝わせようと思っているのにキゼツされたら困ります⚠️)
ところでちせいさま、こういう本を所有するのは「高等遊民」にちがいありません💡さっきまで読んでいた本の主人公が「舞踊研究本を豪華装丁で自費出版しようとしている高等遊民」だったんです❗そういう人や、ちせいさまみたいな方のところにこういう本って来るんだと思いますよ💎
時代の変わり目に、こんな優美な謠本が出されたのは、本当に不思議です。
考えてみれば、それまで、写本は、ごく限られた人たちだけが手にできた貴重品です。それに比べれば、木彫の古活字版は、相当数が刷れたわけですから、当時それなりの需要があったはずです。
丁度その頃(少し後ですが)、初期伊万里の大皿がかなりの数焼かれました。超高級品だったと思います。その大皿が、京都の旧家(町人)に伝来しているのを見たことがあります。
江戸初期には、もう、裕福な人がかなりいたのですね。光悦は美術プロデューサーだったわけですから、時代のニーズに敏感だったのでしょう。
遅生は、「高等遊民」に憧れながら地を這いずり回っている「下等遊民」にすぎません。しいて言えば、「夢想遊民」(^.^)
確かに、実用ではないですね。
初期伊万里の大皿が、江戸初期の「京都の旧家(町人)に伝来しているのを見たことがあります」か。
江戸初期には、もう、既に、富裕層が存在していたんですね!
そういう方が、ステイタスとしてこのような本を飾っていたのでしょうか、、、!?
40cm超の染付、魚の鱗がこびりついていました。何でも、正月に刺身を盛って祝うのが恒例だったとか。そんな使い方を、数百回経て来たんですね。
少しアプローチしたのですが、当然、値が合わず(^^;
もうこうなったらヤケクソで、大したことのない故玩館の大皿に、盛りますか・・・刺身代がかさみすぎます(^.^)