これは、何でしょうか。
単なる木の切り株。
中山道ミニ博物館蔵
松の木です。
よく見ると、木肌に斜めの筋がいっぱい走っています。
人為的に傷つけられたできたものです。
これは、松から樹液をとるためにつけられた傷です。
樹液といえば、漆やゴムが有名です。それと同じ原理で、松が作り出し樹液を集めるために工夫されたものです。
松樹液採取作業(アメリカ、フロリダ州1912年、Wikipediaより)
このような方法は、世界各地で、現在も行われています。
皮を剥がれた松の樹木は、最初の写真の切り株と非常によく似ています。
実は、この切り株は、中山道沿いの旧家に保存されていた品。
戦時中に、松の樹液を採った名残です。
一般には、松根油といわれているものです。松の木や切り株からは、テレビン油が採れるので、それをガソリンや航空燃料の代用品にしようとしたのです。
テレビン油の取り出し方は2つ。1)松の樹液を水蒸気蒸留する。2)松の切り株(根)を乾留する。
写真にあるような幹に傷をつけて採取する方法は、松が生きたままで可能です。今風に言えば、持続可能な採取。
一方、根から採る方法は、松を切り倒して、根を掘り起こさねばなりません。当然、松の木は伐採されます。さらに人力で根を掘り起さねばならないので、ものすごい労力が必要になります。
資源のない日本では、昭和10年頃から、石炭の液化を研究してきましたが、さしたる成果はあげられませんでした。
そこへ、「ドイツでは、松からの航空ガソリンで戦闘機を飛ばす」という情報(ガセネタ)が入ってきて、海軍がそれに飛びついたのです。
昭和19年、「松根油緊急増産運動」が、「200本の松で一時間分の航空機燃料」のスローガンのもと、全国的に展開されたのです。
勤労奉仕には、延べ400万人が動員されました。
家庭からは、鍋など金属類を供出させ、乾留缶3万個以上が造られました。
ところが、この松根油を、実際に航空燃料として利用した記録は無いのです。航空機のエンジンに使用できるだけの品質のものが得られなかったのです。
途方もない無駄。
結果として残ったのは、丸裸の街道。
現在、かつての主要街道沿いに、ズラッと生えていた松並木は、ほとんど残っていません。
東海道の熱田宿と中山道の垂井宿を結ぶ、9宿、全長57㎞の美濃路には、垂井宿追分・綾戸に200mほどの松並木が残っているのみです。ここの松並木がなぜ残ったか、その理由は不明です。
美濃路に残った松並木(垂井宿、追分)
では、全長534㎞、69宿の中山道はどうでしょうか。
現在、残っている主な松並木は2か所。笠取峠の松並木(長野県)と野上の松並木(岐阜県)です。
笠取峠の松並木は、 芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて約2キロメートルにわたっていて、現存する中山道の松並木では、最も規模の大きなものです。他の方のブログで詳しく紹介されているので、ご参照ください。 https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/8070f47a484eb035c26e62a2affe7d9e
今回は身近な場所、先の美濃路の松並木から、西へ2.5㎞ほど行ったところにある野上の松並木を訪ねました。
野上は、58番垂井宿と59番関ケ原宿の間にある小さな間の宿(あいのしゅく)です。元々は、東山道の野上宿として栄えました。遊女の里として有名だった所です。能、班女はここを舞台にしています。
霞たつ野上のかたに行きしかばうぐひす鳴きつ春になるらし 詠み人しらず
一夜かる野上のさとの草枕むすびすてつる露の契を 定家
恨むべき人こそなけれ東路の野がみの庵のくれがたの空 寂蓮
『木曽街道名所図会』2巻 関ケ原野上里
『木曽街道名所図会』には、野上の様子が出ています。江戸時代、東山道から中山道になってからも、間の宿としてかなり栄えていたようです。
しかし、現在、かつての面影はどこにも見当たりません。山間の小さな集落です。
この辺り、かつての中山道は、現在、完全な裏道となり、昼間でも非常に静かです。人っ子一人、猫の子一匹見あたりません。
さて、その野上の集落を抜けたあたり・・・・・
見事な松並木が続いています。
樹齢は300年ほど。街道の雰囲気も残っています。
もう少し離れて全体を見てみると・・・
右手の山側に、白い柵が2段、見えます。
上側が新幹線、下側は国道21線です。新幹線とこの松並木(旧中山道)とは100mも離れていません。反対側(左側)には、Jr東海道線が走っています。
山裾の狭い土地を縫うように、並行して多くの交通路が走っています。この地は、交通の要衝なのです。
松並木を抜けたあたりに、大きな看板が・・・
関ケ原の戦いの時、徳川家康は、この松並木の辺りから、右側の桃配山中腹へ登り、陣を張ったと言われています。
なお、この山が桃配山と呼ばれるようになったのは、壬申の乱の折、大海人皇子が野上に本拠地を置き、その際、兵たちに桃を配って鼓舞し、戦いに勝ったからだといわれています。
野上の地は、日本史上、二度の大合戦の舞台となったわけで、如何にこの場所が重要であったかがわかります。
中山道に現存する数少ない松並木。野上の松並木が奇跡的に残った理由は、はっきりしませんが、ひょっとしたら、地政学上の意味が関係しているのかも知れません。
それはドイツからの情報だったんですか。
軍部も、さすがに、日本史上、二度の大合戦の舞台となった場所の松並木からは樹液を採らなかったのかもしれませんね。
だって、松の木なんか、わざわざそこから採らなくとも、他にいくらでもありますものね。
お寺の鐘でも、由緒あるものは供出を免除したのと同じでしょうか、、、?
なるほど、それもそうですね。合戦のゲンをかついだのかも。でも、完璧に負けてしまいました(^\^)。
笠取峠の立派な松並木(長野県)は、幕府から支給された松苗木を小諸藩が大切に育てたものだそうです・・・・軍も徳川幕府に一目置いていた!?
いずれにしろ、残ったのは奇跡的ですね。
しかし中山道の松並木が消滅したのは残念ですね。
松並木が残っているのはやはり歴史的にも重要な
場所なんですね。