ガラクタ品が所狭しと転がっている故玩館です。ほとんどは裸、適当な合せ箱に入っていればマシな方です。が、ごくごく稀に、これは!と思わせる箱に納まっている物もあります。
道具を納める箱は様々ですが、古い挽屋や今回のような深い印籠蓋の角箱なら、期待度が上がります。
(値札がついたママ(^^;)
真綿の上に鎮座しているのは、黒高麗と呼ばれる焼き物です。
すごい存在感です。
丸い壷を両側からギュッと押さえた扁平な形になっています。
最大径 14.8㎝、同位置短径 12.1㎝、口径 3.7㎝、底径 8.2㎝、高 19.7㎝。重 818g。李朝初期。
黒高麗と呼ばれる焼物は、高麗末期から李朝初期にかけて焼かれた物です。実際は、李朝の品がほとんどだと思います。独特の味わいをもっているので、好事家の間で珍重される品です。
今回の品は、通常の扁壷よりも扁平度が小さく、ふっくらとした造りになっています。酒を入れれば、相当な量になります(^^;
ダイナミックな釉薬の流れが上半部のあちこちに見られます。
上半部は艶があり濃い黒褐色です。見る角度によって、釉流れが銀から薄青に変化する複雑な味わいを醸し出しています。これは、釉薬中の鉄、マンガンなどの金属の効果だと思われます。一方、下半部はマットな褐色釉が薄くかかっています。まず、この鉄釉を全体にかけ、その後、鉄、マンガンの濃い釉薬を上半分に掛けたのでしょう。種類の異なる釉薬を、少なくとも2回掛けているのですね。
底部も、見た目より複雑です。高台内は、一見無釉に見え、白っぽい状態の表面が、畳付まで続いています。ところが、よく見ると、疂付の右上の白い部分が剥げています。そこから赤褐色の土がのぞいています。底部は、白化粧してあるのです。おそらく、底部だけでなく、器体全体に、刷毛で白土を塗っているのだと思います。
つまり、この扁壷は、最初刷毛で白釉を塗り、次に器全体(底部を除いて)に鉄釉を掛け、さらに上半部に鉄、マンガン釉を掛けた後、焼成されているのです。
これ程の品が、どうしてビンボーコレクターの所へやってきたのでしょうか。
グッと目を凝らすと、扁壷の平らな面の中央から、十字架のように大きなニュウが広がっているのがわかります。
反対側にも、同じようなクルスが。
大きな疵物だったのですね。だから私の所へ来た(^^;
それにしても不思議な割れ方です。こんな形のニュウは見たことがありません。しかも、扁壷の両面に、同じように走っています。ニュウ以外に、アタリ疵などはありません。どんな力を加えたら、こんなニュウができるのでしょうか。
古陶磁研究家として有名な小山富士夫(古山子)の箱書きがあります。
小山富士夫といえば、永仁の壷事件が思い出されます。加藤藤九郎らが仕組んだとされる偽の古壺が、1959年、重要文化財となりました。その時、文化財指定に尽力したのが、文部技官・文化財専門審議会委員であった小山冨士夫でした。しかしこの壷は後に贋作とされ、1961年、指定は取り消されました。小山は責任をとって職を辞し、その後は、作陶と古陶磁研究に没頭しました。事件について語ることはなかったと言います。
彼は、中国古陶磁研究の第一人者ですが、朝鮮陶磁器にも造詣が深く、黒高麗を好み、酒を愛したそうです。
昭和43年は、北鎌倉の自宅で作陶に没頭していた時期です。ひょっとしたら、この扁壷に酒を満たしたかも。
この壷に入った不思議なヒビは、決して外には表さなかった小山の心の内を静かに表しているのかも知れません。
なお、小山は敬虔なクリスチャン(クエーカー教徒)で、若い頃には、社会主義に傾倒するなど、多彩な顔をもった人物です。
ps. Dr.Kさんから、壺のニュウは、中に入っていた液体が凍って出来た可能性が高い、と教えていただきました。確かに、外部からの衝撃ではなく、内部からの力によってヒビが入ったとすると、この壺の不思議なニュウは納得がいきます。
でも、この組み合わせ、ぐるっと回って、案外お互いをわかりあえる間柄だったと思います。
門外漢故に黒高麗については判りませんが、きわめて由緒正しき品であることは判ります
「永仁の壺事件」、のちに松永安左衛門の園遊会で小山富士夫と贋作を作った本人の加藤唐九郎が顔を合わせた時
二人は肩を抱き合って「やあ」と言ったという後日談があるようです
明治生まれの気骨と人間の大きさが伝わってくるように思うエピソードです。
なるほど、凍結ですか。内側から力が働くのですね。それなら納得です。力が集中する扁平部中央に亀裂が入るのも説明できますね(^.^)
それに、その箱と中身も一致しているようですね(^_^)
素晴らしいものですね(^_^)
多分、この傷は、中に入っていた水などの液体が、冬に氷って出来たのかと思います。
そのような傷はよくあるんですよね。
ちょっとした不注意で出来てしまうんですよね(~_~;)