五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

冬の庭

2010年12月05日 | 第2章 五感と体感
実家の庭にはいろいろな冬の果実が生り始めました。
真南が庭なので、陽の当たる時間が長く植物の生育にはうってつけの条件です。
柚子、夏ミカン、ミカン、金柑、レモン、花梨が、今年の猛暑を乗り越えてすくすくと育ってくれたようです。
戦時中に育った母は、食べ物のこととなると執着が強く、冷蔵庫、冷凍庫、食物庫が常に満杯でないと落ち着きません。
14,5年前から、庭にも実のなる木を植え始め、毎年の収穫を愉しんでいます。

一方、我が家の庭は、南には向いているのですが、北側斜面に建っているため、日当たりは充分とは云えません。私自身も庭の手入れをする時間が無いので、大きな萩を中心に、まめな手入れの必要が無いものばかりが植えられています。
我が家の横綱である「萩」も、いよいよ葉が落ち、枝がむき出しになりました。そうなると、一気に寂しげな庭となります。

できれば、枯山水にしちゃいたい!とは思いますが、枯山水にしたらしたで、手入れは大変です。

冬の寸の庭

枝を切り落とし、来春の発芽まで暫く庭は休息です。

水仙や雪柳を待ちつつ、今週はちょこっと手入れをしなくては・・・


「クリック応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己実現をイメージする

2010年12月04日 | 第2章 五感と体感
今日は息子の二十歳の誕生日です。

当の本人は、留学先のスペインで誕生日を迎えています。

自分の生まれ育った国に誇りを持ちつつ、他国との境界線という概念を強く持ってもらいたくないと願いつつ、いろいろな国を旅し、滞在することを大切にすることを意識しながら子育てをしてきました。

自分の概念と他者の概念は、違うようでいて、本質は同じところがベースになっていることを肌で感じるには、フィールドワークによって体感し体験するしか術はありません。

自分の体と心と魂が「ある環境」において、感じることや考えることが、自分の生きる道を定めていくように思います。そのためには、教育が必要です。

望む環境、望まない環境、それはその人それぞれの「解釈」によって、いかようにも変化していきます。
どのような環境であれ、逞しく生き抜いていくのが「私自身の自己実現」かもしれません。

そのためには、解釈の仕方を学ぶ必要があります。

他者との関わりが多ければ多いほど、身を置く環境に変化があればある程、自分自身の傾向が自分の内から見えてくるはずです。

人生は修業続きです。

今が良いからといっていても、明日はどうなるか解りません。

どんなことが起こっても、それを解釈していくのは本人です。他人が自分と入れ替わってくれるわけではありません。

体験をどう解釈するか。
自分の感情をどう解釈するか。
それは、自分にとってどんな意味を持つのか?
これからどうすればよいのか?
どう行動するのか?

どう生きていくかは、本人の概念と体験の解釈次第です。

「自分はどうありたいか?」という自問自答を大切に、自分の人生を大切に歩んでほしいと願います。

親は、ますます見守るばかり、です。

「クリック応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍馬の一年

2010年12月03日 | 第2章 五感と体感
中学生くらいのころ「龍馬が行く」(司馬遼太郎)を読んだ記憶がありますが、本のページを捲った記憶だけしか残っていませんでした。

坂本龍馬が、どんなことをし、どんな人だったのか、この一年大河ドラマを通し知ることとなりました。
中岡慎太郎の生家近くで生まれ5年も住んでいたにもかかわらず、土佐の歴史を知らずに育ちました。

土佐は豪快な太平洋が真南に広がり、波打つ海に迫る山が印象的です。
緑深い山と海を越えなくては国境を越えることはできません。
そこで育まれた独特な気質は、確かにあるように思います。

この秋、45年ぶりに訪れた土佐で、人と触れ合う度に実直な真面目さを肌で感じました。

「正義」という言葉は、私は好きな言葉ではありませんが、「義に尽くす」という言葉は嫌いではありません。

「義」には、それぞれの解釈があり、それを統制させていくには至難なことです。

「義」に「正」を付け、「正義と」称しながら自己の利を操る「義」と変容してしまうのが悲しいかな人の「業(カルマ)」かもしれません。

龍馬はひたすら「義」を貫き通した人なのでしょう。

「義」というアイデンティティが時の経過とともに個性化され、土佐の人を「実直」だと感じたのかもしれません。

「正しい義」というのは、ある人から見れば正しくありません。

自己の義を尽くすことで、他者の義と戦うこととなれば、それは総体的に見れば義ではないように思います。
でも、本人たちにとって、それが「義」であるわけです。

坂本龍馬が見ようとする「義」がこうであれば、自分の「義」とは何か?を今一度考える良い機会の一年間だったようです。

☆義(広辞苑):①道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行う筋道。②利害をすてて条理に従い、人道、公共のために尽くすこと、

「クリック応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

侮蔑と称賛

2010年12月01日 | 第2章 五感と体感
今まで賞賛されていた人が一夜明けると侮蔑の対象になったり、

今まで侮蔑されていた人が一夜明けると賞賛の対象になったり、

その対象者は何も変わらない個人なのに、他者は自己のフィルターを通した目で対象者を評価してきます。

自分は評価する側でもあり、同時に評価される側でもあるのです。

他者から賞賛を浴びていくうちに自分があたかも神様や霊能者になったかのようになる話もよく聞きます。
「あたかも神になったかのような・・・」
「あたかも霊能者になったかのような・・・」
「あたかも王様、王女様になったかのような・・・」
もし、自分が尊敬し賞賛している人が、そんなふうになってきていたら心の中で疑ってみることも知恵の一つだと思います。

人を褒めることはとても大事なことです。
でも、大賞賛した相手が、自分のイメージとずれてきた時、裏返したように侮蔑する傾向が自分にあったとしたら、「自分の傾向」を点検したほうが良さそうです。

人に褒められることは、嬉しい事です。
でも、褒められる度合いを点検しつつ、自分の身の丈を測ることも大事なことだと思います。

侮蔑と賞賛の渦中にいながら、淡々と粛々と我が道を歩くにはかなりの精神的鍛錬が必要かもしれませんが、「私は私である」ことを意識しているか否かで「侮蔑と賞賛の渦」を堂々と歩むことが出来るように思うのです。

身の丈に合った自分を大切にしてきたいと思う今日この頃です。

「クリック応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする