「このままでは東京オリンピックどころではないだろう」、「オリンピック対応ということで変則的に編成された学年暦はどうなるのだろうか」などと考えています。元々、under controlという言葉まで使われて、歪曲され、捻じ曲げられて、あるいはこじつけられてオリンピック開催が決まった訳です。その上に、当初のコンパクトというコンセプトはどこヘやら、莫大な費用が投じられています。
さて、今回は東京オリンピックの話ではありません。以下は、或る具体的な事実をきっかけと記す文ですが、あくまでも一般論です。従って、お読みいただいた方が特例の事柄、事件などに当てはめていただいてもかまいません。このように書く私も、何人かの作家、ジャーナリストの方々の文章を読んで、思うところを述べる訳ですから。
政治であれ経済であれ、音楽であれ美術であれ、スポーツであれ、或る人または事物に対する熱烈な礼賛者がいます。分野によっては「熱狂的ファン」や「谷町」(敢えて漢字で書きます。元々は大阪市の谷町筋あたりのことです)とも言われますし、「ヨイショ」、「取り巻き」、「腰巾着」などとも言われます。
このような人たちは、端から見ていると「こいつは何なんだ?」と思える程に激烈に賛辞や礼賛を繰り返します。批判者や傍観者からすればどう見ても悪い、おかしい、不適切である、というような場合であっても「その通りだ!」などと褒め称え、対象を持ち上げるのです。見ている側のほうが恥ずかしくなるような言葉であっても、口にしている本人は平気です。本心からかビジネスからかどうかわかりませんし、あるいは双方が混ざりあっているのでしょう。例えば私が冷や水をかけるがごとく批判などしたら、この人は私に猛反撃を行ってきます。論破という名前で下劣な悪口の一つや二つをしてくるでしょうし、全く無関係な事柄を使った人身攻撃もかけてくるでしょう。逆に私が「こんな人に何を言っても仕方がない」と思って無言を貫けば、「こんな人」は束の間の(かどうかわかりませんが)勝利感を味わうのでしょう。
しかし、何らかの原因で対象となる人や物に関心を失うと、礼賛者は、今までの自分をいとも簡単に捨ててしまうように変節します。「動物の脱皮でもここまで極端なものはない」と思われる程に急激な転換です。昆虫の変態も変節にはかなわないのかもしれません。
それが「熱狂的ファン」や「谷町」であれば、まだ実害はない、またはあっても小さい(少ない)でしょう。それに対し、「ヨイショ」、「取り巻き」、「腰巾着」などと言われる人々の変節がもたらす実害は大きい(多い)と考えられます。勿論、政治、経済などの分野の話です。
対象となった人は或る意味で哀れです。それまで、崇拝という表現が相応しい程に礼賛者から持ち上げられていたのに、突然厳しく叩かれ、挙げ句の果てには弊履のごとく捨てられるのですから。応援団または親衛隊に裏切られたという気持ちは如何ばかりか、と。「嗚呼、変節者は非情なり」と嘆きたくなるのでしょうか。
一方、変節者は、あたかも「自分はこんな奴に過去に熱中しなかったし、ましてや崇拝などしなかった」というような顔をしています。本人は「だまされただけ」、「殻を捨てただけ」と思っているのかもしれませんが、周囲はそのように見ていません。否、そのように見ているかもしれませんが、見方の意味が違います。今までとは正反対のことを話し、態度を180度も転換した訳ですし、変節者が、変節前に何から何まで、たとえどのように悪質な、あるいは失敗が目に見えているような政策(を作った人)や措置(をとった人)であっても声援を送り、褒めちぎったことを、観察者は簡単に忘れません。その結果が、住民、国民、果ては世界中の人々への深刻な打撃(影響という言葉では足りません)につながるのですから、忘れようがありません。
古今東西、おべっか、媚びへつらいが国を滅ぼす一因になった例は、枚挙に暇がありません。
私は、何も自分の立場を頑なに守らなければならない、という立場をとる者ではなりません。孔子が「君子は豹変す」と語ったように(当然ですが、本来の意味です)、時と場合に応じて、良い意味で立場や意見を変えることは、必要でもあります。ただ、その場合には真剣な自省を伴わなければなりません。「私はこれまで何を過ってきたのか」という意識がなければ、そしてその意識を表に出さなければ、醜悪この上ないということです。
大学院生時代以来、いや、もっと前からかもしれませんが、学者は観察者であり、批判者でなければならない、と思っています。私はそのように指導を受けてきました。批判的な立場を貫くことは難しいですし、どうかすればただの頑固者、象牙の塔に籠もる学者になってしまうのですが、そのほうが、「ヨイショ」、「取り巻き」、「腰巾着」などと揶揄される御用学者であるよりも、はるかに「増し」であると考えています。
それにしても、最近、政治関係でよく使われる「見える化」という言葉の、実に据わりの悪いこと。