私は、大分大学教育福祉科学部講師であった2000(平成12)年の6月3日に、現在の川崎高津公法研究室(当時は「大分発法制・行財政研究」。「高島平発法制・行財政研究」を経て現在の名称へ)というサイトを立ち上げました。行政法を専攻分野としてきた私ですが、サイトを作った理由の一つは憲法でした。大分大学在職中の7年間は憲法の講義を担当しており、その便宜を図ることが目的の一つであったのです。
以上のことから、開始以来、2009年2月10日まで「日本国憲法ノート」〔第5版〕を掲載していました(第4版までは「『日本国憲法』講義ノート」)。現在も休止中としていますが、解除するかどうかはまだ決めていません。
勿論、行政法であれ租税法であれ、憲法と無関係ではありえません。そればかりか、ここ数年、憲法をめぐる情勢が急速に変化してきています。そこで、今日は「日本国憲法ノート」の第2回「日本国憲法制定までの過程」を復活掲載することとします。なお、若干の修正を加えたものの、内容の基本線が2007(平成19)年5月17日のものであることをお断りしておくことといたしましょう。
★★★★★★
1.大日本帝国憲法の制定、特徴
大日本帝国憲法の制定過程などについては、既に、高等学校までの段階において社会科(とくに日本史)において扱われている。また、憲法学の教科書などにおいても検討が加えられている。そこで、このノートにおいては省略し、1889(明治22)年2月11日に公布され、1890(明治23)年11月29日から施行されたことだけを記しておく。
大日本帝国憲法も、一応は立憲主義的憲法である。しかし、次の諸点において、立憲主義的憲法としては極めて不十分なものであった。
a.「臣民」の権利・自由は天皇によって与えられたものにすぎず、しかも「法律ノ範囲内」などの用語に見られるように「法律の留保」の下において認められたにすぎない。
ここにいう「法律の留保」には注意が必要である。行政法学において、法律の留保とは、行政が何らかの活動を行う際に、その活動を行う権限が法律によって行政機関に授権されていなければならない(すなわち、与えられていなければならない)という原理をいう。従って、元来、少なくとも、国民の権利や自由を制約し、または新たな義務を課するような活動を、法律の根拠なくして行政権が単独でなすことは許されない、ということを意味する(「行政法講義ノート」〔第5版〕の第04回を参照)。しかし、これを逆手に取るならば、法律さえあればいかなる権利や自由を制約してもよい、という意味になりうる。大日本帝国憲法が施行されていた時代に、「法律の留保」は、元来の意味から逆手に取られた意味に変質していった。
b.権力分立の原則が採られていたとは言え、これも不完全であった。立法・行政・司法とも天皇を「翼賛」するにすぎなかったのである。
c.衆議院と貴族院は対等であった。このため、非民主主義的に構成される貴族院によって、多少とも人権保障に寄与しうる法律案などが容易に否定されえた。そればかりでなく、議会の権限は非常に弱かった。
d.内閣制度は憲法上の制度ではなく、各国務大臣は天皇に対して責任を負うのみであり、内閣の(議会に対する)連帯責任は存在しなかった。
e.そもそも、天皇は神聖不可侵であり、国の元首であって、統治権を掌握・統括する権限を有していた(つまり、主権を有していたことになる)。とくに、皇室の事務に関する大権、栄典の授与に関する大権、軍の統帥に関する大権は、一般国務から独立していた。また、皇室典範が憲法とは独立して存在し、両者が同等の関係にあったことも見逃せない。
天皇の地位は、皇祖天照大神が皇孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)を「葦原千五百秋瑞穂国」(あしはらのちいほあきのみずほのくに)に降臨せしめた際に賜ったという勅語(『日本書紀』)を根拠にしていた。
2.ポツダム宣言
これは、軍国主義の除去(およびそのための手段)、民主主義的傾向の復活ないし強化、言論・宗教・思想の自由および基本的人権の尊重を確立することを、日本に対して求めるものであった。そして、これらの目的が達成され、しかも日本国民が自由に表明する意志に従って平和的な傾向を有する、責任ある政府が日本にできることを、占領の解除条件とした。この宣言が大日本帝国憲法の終焉を直接的に招いたか否かについては議論の余地があるが、この宣言は、大日本帝国憲法の完全な存続を許すものではなかったと言いうる。
3.マッカーサー・ノートなど
1945(昭和20年)10月頃から、大日本帝国憲法改正の動きが見られる。1946(昭和21)年1月末までには、憲法問題調査委員会(松本委員会)が審議の末に三案を成立させた。しかし、この案は保守的であったために総司令部の失望を招く。そして、総司令部自身が憲法改正案を作成した。その基礎は、マッカーサー・ノートおよびSWNCC-228にあり、この改正案が日本国憲法改正案の基となって、大日本帝国憲法第73条による改正として第90帝国議会に提出された。1946年11月3日に公布、1947(昭和22)年5月3日に施行された。
マッカーサー・ノートの概要は、次の通りである。概要は次の通りである。①天皇は元首であり、皇位は世襲である。天皇の職務および職能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところによって国民の基本的意思に対して責任を負う。②戦争を放棄し、そのための手段をも放棄する。③華族制度の廃止。予算の型は、イギリスの制度に倣う。
また、SWNCC-228とは、国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書228号のことである。1946年1月11日に総司令部に送付されたもので、「日本統治制度の改革」という題であった。
4.日本国憲法は大日本帝国憲法第73条によって改正された?
日本国憲法は、大日本帝国憲法第73条に定められた改正手続により成立した。
しかし、大日本帝国憲法と日本国憲法との間には、無視できない断絶がある。
a.手続上は上記の通りで、日本国憲法は大日本帝国憲法と同じく、欽定憲法である。
b.しかし、大日本帝国憲法は、主権が天皇に存することを示している(主権という語は使われていないが、第一章を見れば明らかである)。これに対し、日本国憲法は、前文第1項において、国民主権原則を採用する民定憲法であることを明示する。
c.憲法改正に限界がないとする説を採るならば別であるが、主権の担い手が変化したのに、この点を単純に「改正」によって処理するのは、理論的にはおかしい。
カール・シュミット(Carl Schmitt)によれば、 憲法改正は厳格に解されなければならず、用語として、次のように区別されなければならない。
憲法改正(Verfassungsänderung)とは「従来通用していたVerfassungsgesetzeの条文の変更。これには、個々のVerfassungsgesetze上の規定の排除、および個々の新たなVerfassungsgesetze的命令(Anordnung)の受け入れをも含む」。
これに対し、憲法廃棄(Verfassungsvernichtung)とは「既存の憲法の根底にある憲法制定権力の同時的排除の下での、既存の憲法(一つまたはそれ以上のVerfassungsgesetzeのみではない)の排除」をいう。
また、憲法廃止(Verfassungsbeseitigung)とは「既存の憲法の排除であるが、憲法の根底にある憲法制定権力の維持の下に行われる」として、憲法改正から区別される。
[以上、Carl Schmitt, Verfassungslehre, 1. Auflage, 1928, 8. Auflage, 1993, S. 99ff.〔邦訳書は、阿部照哉=村上義弘訳『憲法論』(1974年、みすず書房)126頁〕による。但し、VerfassungとVerfassungsgesetzeについて適切な訳語を見い出すことができなかったので、原語をそのまま使用している。]
このように考えるならば、理論的には、大日本帝国憲法から日本国憲法へ「改正」されたと言うには無理がある。そこで、これを円滑に説明するための試みとして「八月革命説」が提唱された。宮澤俊義博士によると、ポツダム宣言が国民主権主義を採ることを要求しているから、宣言受諾の時点で一種の革命があったことになる(但し、この革命によって大日本帝国憲法が廃止されたという訳ではない)。大日本帝国憲法第73条は、便宜的に用いられたにすぎないこととなる。このような説明に対し、佐藤幸治教授は、ポツダム宣言が国民主権主義を採ることを要求したか否かについては疑問の余地があり、そうであったとしても、宣言の受諾は国際法上の問題であって国内法の変化を誘発したとみるにはかなりの困難がある、しかも占領軍の下でも大日本帝国憲法が施行されていたことを説明するのが難しい、などの理由をあげ、八月革命説を否定する。
(佐藤幸治『憲法』〔第三版〕を参照したのですが、頁がわからなくなりました。判明次第、ここに補充します。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます